名作邦画『劇場』『生きちゃった』を鑑賞し、答えなき人生の旅路を垣間見る
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名作邦画『劇場』『生きちゃった』を鑑賞し、答えなき人生の旅路を垣間見る

 映画アドバイザーのミヤザキタケルさんが、オススメの作品を1本ご紹介するのと同時に、その映画に合う作品をもう1本ご紹介する連載「シネマ・マリアージュ」。つまり<これを観てから、これを観るとさらに楽しめる>というコンセプトのもと、組み合わせの良い2作品を皆さまにお届けします! 今回は、又吉直樹原作の恋愛小説を映画化した『劇場』と、日本映画界の最前線をひた走る石井裕也監督のオリジナル作品『生きちゃった』をマリアージュ。

文=ミヤザキタケル @takeru0720

『劇場』('20)

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夢を追い掛けたすべての人へ…

 芸人であり芥川賞作家でもある又吉直樹原作の長編小説を、『GO』('01)、『窮鼠はチーズの夢を見る』('19)の行定勲監督作が、山﨑賢人松岡茉優共演で実写映画化。演劇の世界で劇作家としての成功を夢見るも、くすぶり続ける青年、永田(山﨑)は、偶然出会った女優を目指す沙希(松岡)と恋に落ち、彼女の家に転がり込むことになるのだが…。

 沙希の家に住み着き、家賃も光熱費も払わず自分の好きなことだけをしながら生きる永田。かといって、演劇にすべてを注ぐわけでもなく、沙希に依存したまま空虚で自堕落な日々を過ごしている。常識的に考えるなら、永田はひどい男かつ最低な人間であると思う。だが、夢を追い掛ける、いや、夢にしがみつくその姿勢や心の弱さなどに関しては、心当たりがある人も多いはず。

「いつまで持つだろうか」

「いつまで持つだろうか」、そんな永田のモノローグから始まる本作。かつて夢を追い掛けた者や、夢を手放した者、夢を叶えようと今もあがき続けている者なら、その言葉が意味するところに容易に察しがつくと思う。時間・金・年齢・想い・今ある日々など、夢がまだ叶っていない期間においては、何かしらのタイムリミットが生じるもの。夢の実現へと至る道筋はこれっぽっちも見えやしないのに、諦めなければならないタイムリミットだけは刻一刻と迫ってくる。騙し騙し気付かぬふりをすることも可能だが、何かの拍子に、もう時間がないことと向き合わざるを得なくなる瞬間が訪れる。一度、気付いてしまうと、ひどく心がむしばまれ、焦燥感や己のふがいなさで胸がキツく締め付けられる。劇中、絶えず繰り返される永田のモノローグを耳にするたび、在りし日の自分を思い出すことになるのではないだろうか。

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 夢を追うことは素晴らしいことだと人は言う。でも、初めから夢など抱かなければ、劇中で目にするような思いもせずに済む。高望みすることなく身の丈に合った生き方を選べれば、大切な人に余計な心配や迷惑を掛けることも減る。しかし、それを分かっていながらも、人は夢を追い掛けずにはいられない。一度思い描いた夢をそう簡単には手放せない。己の器の大きさや限界を目の当たりにして足踏みし、そこで踏ん切りをつけたり軌道修正ができればまだ良いが、漠然と夢にしがみ続けてしまう人も中にはいる。長い人生、一発逆転が起きないとも言い切れない。終了の笛は誰も鳴らしてはくれない。自分の人生に責任を持てるのは自分だけ。

 その責任を負うことからひたすら逃げ続けていた男がたどり着く果てや、どうしようもない男女の恋模様、理想と現実のはざまでもがき苦しむ心の葛藤、手遅れになってからでないと気が付くことのできない大切なこと、それらを痛々しくもいとおしく映し出すのがこの作品だ。夢を叶えられた人生と叶えられなかった人生、そこに優劣は生じるだろうか。夢を手放した果てに手にした幸福は、劣ったものだろうか。人生を大きく左右する夢との関わり方に、あなたの心は一体何を思うだろう。

『生きちゃった』('20)

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石井裕也監督が「信頼できる仲間」と作った原点回帰作

川の底からこんにちは』('09)、『舟を編む』('13)、『アジアの天使』('21)などで知られる石井裕也監督が、上海国際映画祭で発表されたプロジェクト「B2B(Back to Basics)A Love Supreme」に参加し、「至上の愛」をテーマに映画製作の「原点回帰」を探求するというコンセプトのもと作り上げたオリジナル脚本を、仲野太賀大島優子若葉竜也らの出演で映画化。幼なじみである厚久(仲野)と奈津美(大島)と武田(若葉)。大人になり結婚した厚久と奈津美の間には5歳になる娘がおり、平穏な毎日を過ごしていたかに思われたある日、厚久は奈津美の浮気現場を目撃してしまう…。

『劇場』の永田とは異なり、歌手になる夢を早々に手放し、真面目に働き、結婚して娘ができ、信頼できる友人もおり、堅実に日々を生きていた厚久。永田とは対極の存在といっても過言ではない。逆説的に考えるなら、永田のように夢を追うことで味わう苦悩や葛藤にさいなまれるリスクがない分、幸せに生きられるはず。だが、人生はそんなに単純ではない。どんな道を選んだとて、楽しいことばかりが訪れるとは限らない。幸福の定義も不幸の定義も人それぞれ。永田と厚久、対極にいる2人の人生を垣間見ることで、より一層その実感が湧いてくるだろう。

「生きちゃった」が意味するものとは何か?

「生きる」でも「生きた」でもなく、「生きちゃった」。この聞き慣れない特異なタイトルに、まず誰もが「?」となるだろう。劇中で亡き祖父を悼む厚久の姿からも想起させられるが、死んでほしくなかった人や死ぬそぶりも見せていなかった人が死んでしまった場合などに、「死んじゃった」という表現が用いられると思う。同様の考え方で、「生きちゃった」を捉えてみよう。そうすると、生きる意思や目的がないのに生きているさまを指して「生きちゃった」という意味合いになってこないだろうか。

 劇中で描かれる人間模様を目の当たりにすれば、その道理にも納得がいくと思う。明確に「生きる」姿勢でいる人と、漠然と「生きちゃった」姿勢でいる人の見分けが、話が進むにつれてよりクッキリとついてくる。妻の浮気現場を目撃したことで、自身が「生きちゃった」姿勢であると痛感する厚久。自分が何のため、誰のために生きているのか、その答えを見いだせずにいると自覚し、どうしようもない空虚さに心がむしばまれていく。そんな彼の姿に心が揺さぶられる。そして、厚久を案じる武田の真っすぐな優しさもまた、観る者の胸を締め付ける。

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 その上で、自分自身にも問わずにはいられない。果たして自分は「生きる」姿勢か、「生きちゃった」姿勢なのか。仮に後者だったなら、どうするべきなのかと。ままならない人生で、明確な意思や目的を持って生きている人は一体どれくらいいるだろう。ラストシーン、厚久の心が行き着く先はどこか。ぜひご自分の目と心で見届けてください。

 2020年7月公開の『劇場』と同年10月公開の『生きちゃった』。コロナ禍初期のえたいの知れない暗雲に包まれた日本映画界においても、その輝きを遺憾なく発揮した珠玉の2作品。自らが歩んできた人生と照らし合わせながら、ぜひセットでご覧ください。

ミヤザキさんプロフ20210917~

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クレジット
『劇場』:(C)2020「劇場」製作委員会
『生きちゃった』:(C)B2B, A LOVE SUPREME & COPYRIGHT @HEAVEN PICTURES All Rights Reserved

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