一つのルールに抵触した人間に対しては、何をしても許されるのだろうか――1本の映画が突きつけるもの

 SDGs(Sustainable Development Goals)とは、2015年9月の国連サミットにて全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す17の国際目標。地球上の「誰一人取り残さない(Leave No One Behind)」ことを誓っています。
 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、映画が持つ多様なテーマの中には、SDGsが掲げる目標と密接に関係するものも少なくありません。たとえ娯楽作品であっても、視点を少し変えてみるだけで、われわれは映画からさらに多くのことを学ぶことができるはず。
 フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによる連載「観て、学ぶ。映画の中にあるSDGs」。映画をきっかけにSDGsを紹介していき、新たな映画体験を提案するエッセイです。

文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda

 今回取り上げるのは、アジアの無国籍都市「円都(イェン・タウン)」を舞台にした群像劇『スワロウテイル』('96)。

 国から守られることのない人々の姿は、これまで取材で向き合ってきた、難民となった人々、在留資格を失い虐げられてきた人々の姿にも重なりました。その実感も踏まえ、「目標10:人や国の不平等をなくそう」を軸に、改めてこの作品と向き合いたいと思います。

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(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)

公開から約25年たった今も『スワロウテイル』が突きつけてくるもの

 困ったことが起きていた。今月の映画に岩井俊二監督の『スワロウテイル』を選んでみたものの、SDGsのどの項目を当てはめようとしても、しっくりこないのだ。誰かの決めたカテゴリーにはめ込まれず、はみ出しながらもなお、ありったけの力を込めて生きている人たちがいるのだと、改めて突き付けられる思いだった。

 「誰も取り残さない」というSDGsの理念は、今後の未来を考える上でとても大切なことだと私は思っている。けれども「取り残さない」という「目標」を掲げているのは、「取り残されている側」ではない。だからこそこの目標の「掲げ方」次第では、上から目線で人や社会を見つめることにもなりかねない。

 それでもあえて今回、「目標10:人や国の不平等をなくそう」を軸にこの映画を見つめたのは、この映画が公開されてから約25年がたった今の世界を見渡した時、変われたところ、変わってしまったところ、変わらないところが見えてきたからだ。

 『スワロウテイル』を初めて観たのは、公開からさほどたっていない頃、確か劇場ではなく、たまたま家族が借りてきたビデオで観たのだと思う。まだ10代だったこともあって、圧倒された覚えはあるものの、具体的なシーンは記憶の中で曖昧になっていた。2度目に観たのは公開から20年がたとうとしていた2015年、この映画から生まれた架空のバンド「YEN TOWN BAND」が発表したシングル「アイノネ」のCDジャケット写真を担当することになったことがきっかけだった。

 『スワロウテイル』が描き出すのは、日本の“円”が世界で最も強いといわれた時代だ。「移民」として日本にやって来た人々は、舞台となる街のことを「円都(イェン・タウン)」と呼んでいた。けれどもそんな「移民」たちは、「円盗(イェン・タウン)」と社会の中でさげすまれていた。Charaが演じる主人公グリコは上海出身で、兄リャンギ(江口洋介)と生き別れ、体を売って暮らしをつないでいた。そしてグリコは、彼女と同じように体を売っていた母親を殺された、名もない少女を引き受け、アゲハ(伊藤歩)と名付ける。

 中国語、英語、少しの日本語、私のまったく知らない言語、と重層的に言葉が飛び交い、服装や家の装飾には、それぞれの文化の薫りが漂う。隣り合っているはずの「日本社会」が、なぜか単一でモノクロに見える。

 バラックがひしめき合う「無法地帯」での人間関係は、決してきれいごとばかりではない。時に生々しい欺き合いが垣間見える。それでもこの「円都」で、人々は知恵を絞り、時に鮮やかな生の輝きを放つ。

 この記事を書こうと、3度目に観た今回、時代が変わったのか、以前とは私の物の見方も変わってきたからか、より俯瞰した目線でこの映画を見つめている自分がいた。例えば「外国人」「薬物を使う人」を画一的に描いているように見えるいくつかのシーンには、引っ掛かりを感じ入り込むことができなかった。

 ただ、25年たつ今も変わらずこの映画が社会に突き付けてくるものがある。以前観たときよりもグサッと心に刺さったのは、主人公グリコにレコード会社の上役たちが、「君、日本人にならない? そのほうが売れるんだよね」といとも簡単に言い放ったシーンだ。今、ちまたにあふれるヘイト・スピーチに声を上げると、「嫌なら出ていけ」という言葉と同じくらい「嫌なら日本人になればいいのに」という言葉に突き当たる。

 それは必ずしも悪意を持っている人々から発せられるとは限らない。「どうして? 不便じゃない?」と、不思議そうに尋ねる人もいる。社会的な「マジョリティ(=多数派)」の側に、「マイノリティ(=少数派)」の側が同化すれば「丸く収まる」という考えは根強い。けれども同時に、アメリカ人の両親のもとに生まれても、「日本の英語教育のおかげで英語が全くしゃべれない」と自らを皮肉り、日本語のみが母語だという男性も登場する。彼の存在は、安易な「日本人にならない?」という問い掛けに対して、「“日本人”とは誰か?」という、ある種のカウンターのように思えた。

三上博史扮するフェイホンが直面した、外国人の人権を密室で踏みにじるという構造的な暴力は変わっていない

 そして、公開からの25年で、大きく変わったことがある。現代はもはや、あの映画に描かれた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代ではなくなったのだ。例えば、IMF(国際通貨基金)の公開データベースによる世界のひとり当たり名目GDPで、日本は2020年10月現在25位、8位のシンガポールは日本の1.6倍となっている。国別の名目GDPで捉えたとき、確かに日本は世界第3位の「経済大国」ではあるものの、第2位の中国は日本の約3倍近い規模だ。

 経済力だけではない。イギリスの教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(Times Higher Education:THE)」が公表した最新の大学ランキング2021によると、上位13位までを米英の大学が占め、続くアジアの大学は中国の清華大学(20位)や北京大学(23位)だ。

 もちろん、社会背景も異なり、この数字ですべてが計れるわけではない。そして人々の営みの指針となるものは、経済力や学力だけではない。けれども「人権」という軸で日本社会を見つめても、課題は山積している。WEF(世界経済フォーラム)が発表しているジェンダー・ギャップ指数2020は世界121位。国連児童基金(ユニセフ)が行なった先進・新興国38カ国に暮らす子どもの精神的な幸福度は最低レベルの37位と、この連載でも伝えてきた。そして、在留資格がないなどの理由で外国人を無期限に収容する日本の方針は、これまでも国連から再三「拷問に当たる」などの指摘を受けてきた。

 グリコの歌の魅力を誰よりも知っていたフェイホン(三上博史)も、在留資格のない外国人のひとりだった。密室の取調室で、まるで物のように殴られ蹴られ、血まみれの暴行にさらされ続ける。もうろうとする意識の中、グリコといつか口ずさんだ「My Way」を一晩中歌い続けた。私にはこれが、「架空」の物語に思えなかった。

 2010年、日本人の妻と日本で暮らしていたガーナ出身の男性スラジュさんは、強制送還されることになり、何人もの入管職員たちは彼の手足を拘束して飛行機の座席まで運び込んだという。前かがみにさせられ、首を押さえ付けられたスラジュさんは、意識を失いそのまま息絶えてしまった。けれども国側は彼の死を心臓の奇病によるものだとして、入管の責任は問われなかった。

 2014年、茨木県牛久市の入管施設では、カメルーン人男性が体調不良を訴えるも放置され亡くなるという事件が起きた。床の上を転げ回るほどもがき苦しんでいるにもかかわらず、職員は監視カメラで様子を観察しながら、適切な処置をしなかったとされる。

 これは映画の中の話ではなく、現実に起きたことだ。入管と警察という違いはあるものの、残念ながらフェイホンが直面した、外国人の人権を密室で踏みにじるという構造的な暴力は変わっていない。

 日本に暮らす難民の人々の取材を続けていると、「難民のふりをして働きに来る外国人が増える」という根強い偏見が必ず出てくる。けれどもそれは、日本がアジアで一番の国で、憧れの国だから皆働きに来たいに違いない、という傲慢な考えに裏打ちされていないだろうか。他にも、「在留資格がないのだからどっちもどっち」という声に問いたい。

 一つのルールに抵触した人間に対しては、何をしても許されるのだろうか。そうした不平等の問題を論じているのに、なぜ「どっちもどっち」と並列して語るのだろうか。今だからこそ、SDGsの「目標10:人や国の不平等をなくそう」に照らし、この映画を改めて、受け止めてみてほしい。

安田さんプロフ
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