この映画の大切な問いは、「あなたは何をしてきたのか」――『スポットライト 世紀のスクープ』から考える

 SDGs(Sustainable Development Goals)とは、2015年9月の国連サミットにて全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す17の国際目標。地球上の「誰一人取り残さない(Leave No One Behind)」ことを誓っています。
 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、映画が持つ多様なテーマの中には、SDGsが掲げる目標と密接に関係するものも少なくありません。たとえ娯楽作品であっても、視点を少し変えてみるだけで、われわれは映画からさらに多くのことを学ぶことができるはず。
 フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによる「観て、学ぶ。映画の中にあるSDGs」。映画をきっかけにSDGsを紹介していき、新たな映画体験を提案するエッセイです。

文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda

今回取り上げるのは、第88回アカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞した『スポットライト 世紀のスクープ』(’15)。

 実際に起きた神父たちによる性虐待と、長年それを組織的に隠蔽(いんぺい)してきたカトリック教会の問題を報じ、世に知らしめたボストン・グローブ紙の調査報道チーム「スポットライト」を描いた作品を、SDGsの「目標16:平和と公正をすべての人に」の観点から紐解いていきたい。

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(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)

「見て見ぬふり」をしてきたジャーナリズム界の構造的な問題

※この記事には性被害に関する記述があります。読まれる際はご注意ください。

 「このことは伏せておきましょう」「何事もなかったことにするのが一番」…。2018年12月、“人権派”と評されてきたベテランのフォトジャーナリスト、広河隆一氏による、長年にわたる性暴力、パワハラが週刊誌で報じられ、明るみとなった。「写真を教えてあげる」などと近づき、「この人ににらまれたら、将来この業界でやっていけないかもしれない」という女性たちの立場の弱さに付け込んだ、悪質なものだった。被害者のうち何人かは、週刊誌報道以前に関係者に被害を打ち明け、相談したことがあったという。けれども冒頭のような言葉で「なかった」ことにされ、それが彼女たちにさらなる追い打ちをかけた。

 報道後、同業者からは「今、こうして広河氏を批判したら、広河氏が挑んできたような“権力側”の思うつぼになってしまう」と、告発をいさめるような声さえ聞かれた。「活動自体はいいことをしているのだから」という“大義名分”で、どれだけの声が封じられてきたのだろうか。そもそも被害者たちの人権を踏みにじって成り立つ活動や取材に、“意義”などあるだろうか。このように俯瞰(ふかん)して見ると、この事件は広河氏個人の問題にとどまらず、「見て見ぬふり」をしてきた周囲、さらにはジャーナリズム界の構造的な問題によって繰り返されてきたものであることがうかがえる。

 この告発に対する各界の反応は、必ずしも望ましいものばかりではなかった。広河氏に賞の審査員、つまりある種の「権威」を与えていた団体は、数行の短い声明を出すのみにとどまったり、全く反応を示さなかったりしたところもあった。こうしたレスポンスの鈍さは、報道やメディア業界の内部では、意思決定の中枢に女性がいまだ少ないことと、無関係ではないだろう。

 さらに被害者たちには、時効の壁が立ちはだかった。広河氏がかつて発行人を務めていた雑誌「DAYS JAPAN」の発行元、デイズジャパン社に損害賠償請求していた被害者のうち、深刻な性暴力を受けた女性のひとりは一切の賠償金を受け取れなかった。被害が10年以上前に起きたことであるため、「時効」とされてしまったのだ。英オックスフォード大学などの研究チームは、「望まない性交」経験者の約2割が、それを本人が被害と認識するまでに10年以上かかっていたとの調査結果をまとめている。そこから「声を上げていいんだ」と気付き、実際に相談できるようになるまでには、さらなる年数がかかるはずだ。

 この件に限らず、性暴力の加害者は、時に「同意していたと思ったのに」と、むしろ告発され“名誉”を傷つけられた自分こそ被害者だと主張することさえある。そして「強者」の側に味方し、「なぜその時間に出歩いていたんだ」「なぜついていったんだ」「隙があったのではないか」と被害者をバッシングする声も絶えなかった。そんな二次加害ももう、終わりにしなければならない。

せめて、告発した人々が「声を上げることは無駄ではなかった」と思えるために

 こうした暴力の被害者は、女性たちだけではない。映画『スポットライト 世紀のスクープ』は、神父たちによる性虐待と、組織的な隠蔽の問題を追った、記者たちの奮闘を描いたものだ。2002年にボストン・グローブ紙が、長年にわたりカトリック教会が黙殺してきた被害を暴いたという実話に基づいている。

 被害に遭った人々が、貧困や家庭崩壊に苦しみ、廉恥心が強そうで歯向かわない少年たちに集中していることからも、「立場」を利用した悪質な暴力であることは明らかだった。ところが、多くの人々が信仰している宗教組織を批判すること自体が、地域のタブーとなっていた。「枢機卿は素晴らしい人だから」「多くの人を救うには教会が必要だ」と、犯罪を覆い隠そうとする声に告発は阻まれていく。

 こうした幾重もの隠蔽構造があったからこそ、ボストン・グローブ紙の新編集局長バロン(リーヴ・シュレイバー)は、特集記事欄「スポットライト」を担当するロビー(マイケル・キートン)ら少数精鋭の調査報道チームに事件を追わせる。記者たちは、枢機卿個人の問題として、勇み足の報道はしなかった。組織の中の闇に切り込むため、彼らは時間をかけて裏取りを重ねていったのだ。

 証言をした被害者たちはおびえていた。自身の被害を語ることは、どれほど時間がたっても苦痛を伴うものだが、理由はそれだけではない。圧倒的な権力を持つ教会を前に、声を上げることで居場所を失うことを恐れていた。そして、いら立っていた。過去に訴え出た被害が、ある時は「インチキだ」と突き返され、時には無視されることもあったからだ。

 この映画の大切な投げかけは、「あなたは何をしてきたのか」だろう。問われていたのは直接この問題を握りつぶしてきた教会や弁護士たちの姿勢だけではない。「何かがある」と思いながらも背を向け続けてきたジャーナリズムもまた、その責任から逃れることはできない。この問題に切り込んだボストン・グローブ紙も、過去に加害者たちのリストを受け取りながら、何の行動も起こさなかったのだ。

 この映画のエンドロールには、性虐待の問題が発覚した、おびただしい数の教会のリストが流れてくる。それも「分かっているだけの数」にすぎない。追い詰められ、自ら命を絶った被害者たちは、既に直接声を届けることができなくなってしまっているのだ。

 SDGsの「目標16:平和と公正をすべての人に」を構成する11個のターゲットの一つには、「16.2 子どもに対する虐待、搾取、取引及びあらゆる形態の暴力及び拷問を撲滅する」が挙げられている。この映画で告発された性虐待は、教会側が代理人の弁護士を通じ、裁判所を介さず直接「示談金」で被害者を黙らせてきたことが指摘されている。だからこそ同じ目標内で掲げられているターゲット「16.3 国家及び国際的なレベルでの法の支配を促進し、すべての人々に司法への平等なアクセスを提供する」「16.5 あらゆる形態の汚職や贈賄を大幅に減少させる」も同時に実現されなければならないだろう。

 日本でも、聖職者による性虐待が実名告発で報じられるなど、分厚い壁が少しずつ、崩されようとしている。ただ、被害当事者の負担はあまりに大きい。せめて、告発した人々が「声を上げることは無駄ではなかった」と思えるために、周囲が沈黙せず、組織や社会の仕組みを変えていくための行動を重ねていくことが、何より必要とされているはずだ。

安田さんプロフ
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