『行き止まりの世界に生まれて』から、「見る」という行為のすばらしさと難しさを知る #山崎ナオコーラによる線のない映画評
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『行き止まりの世界に生まれて』から、「見る」という行為のすばらしさと難しさを知る #山崎ナオコーラによる線のない映画評

 作家の山崎ナオコーラさんが綴る、映画をテーマにした連載エッセイ。今回は、3人の若者たちの姿を12年間にわたって記録撮影し、第91回アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされたほか、数多くの映画賞を受賞した『行き止まりの世界に生まれて』('18)について書き下ろしてもらいました。

文=山崎ナオコーラ @naocolayamazaki

 なんとも言えず、良い映画だった。見て! と言いたい。
 映画なのだから本来は「観て!」と言うべきところだが、今回は「見て!」と思った。
 理由としては、この映画の肝がビン・リュー監督の視線にあると感じたからだ。「見る」という行為のすばらしさ、難しさを知った。

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行き止まりの世界に生まれて』は、スケートボードに夢中になる若者たちを撮ったドキュメンタリーだ。
 アメリカのイリノイ州ロックフォードに住み、暴力や差別に苦しみながら大人になっていく若者たち。
 スケートボードは命綱だ。
 つらいことがあっても、スケートボードがあれば生きていける。
 抜群のスキルがあり、ちょっととがった性格で、亡くなった父親との関係に悩むキアー。子どもが生まれ、大人になろうともがきながら、なかなか生活を軌道に乗せられないザック。そして、映画監督になったビン

 今年開かれた東京オリンピックでスケートボード競技が盛り上がったこともあり、最近、スケートボードに注目する人が増えている。
 そして、スケートボード界にたくさんのスターが続々と生まれている。
 けれども、みんながスターになるわけではないし、そもそもみんながスターを目指してやっているわけでもない。どんな仕事にもスポーツにも芸術にも、そして私がやっている文学にも当てはまることだが、スターとしてやるか目立たなくやるかに関係なく、その人にとっての「やる理由」があり、やり続けていれば意味が出てくる。生活の隣にスケードボードを置いて、多くの人が生き続ける。

 「スケートボードは気持ちいい」。だから、多くの人が夢中になる。苦しみを抱えている人はさらにその快感を強く味わうのだろう。

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 本作に出演するキアーやザックは、「スター」と呼ばれるほどの活躍はしていないのだろうと思う。もちろん、スケートボードのシーンはかっこいい。キアーの技術はすごい。でも、二人とも、ずっと生活に悩んでいる。
 二人の生活をずっと追っていくカメラ。
 カメラはビンの目だ。
 そして、ときにはビン自身とその家族もカメラの前に出る。
 キアーはおそらく「黒人」で、ザックはおそらく「白人」で、ビンはおそらく「黄色人種」だと思われる。若者たちは、人種差別についても語り合う。ただ、それらの言葉は笑いながら発せられていた。こんな差別があった、といったエピソードを、冗談にするのだ。
 きっと、キアーたちは、冗談にせざるを得ないのだ。アメリカの差別の深刻さをずっしりと感じる。
 人種差別、児童虐待、貧困といったものがあふれる街で子ども時代を過ごし、うまく大人になれず、スケートボードで街中を滑り続ける若者たち。
 ヘルメットをしないで大丈夫なのか、こんなところで滑って警察に捕まらないのか、と見ているこちらははらはらするが、彼らにとってはそのスリルもまたスケートボードに夢中になるひとつの要因なのだろう。ルールからはみ出してやるぞ、普通の生き方を押し付けるな、という意思の表明でもあるのに違いない。

 おそらく、カメラを回し始めたときのビンは、「かっこいいスケートボード」と「若者たちの面白い会話」を撮ろうとしていたのではないか? けれども、何年か経つうちに、映画の芯ができていく。赤ちゃんが生まれ、どんどん大きくなっていくので、歳月の変化が表れる。
 12年かけて撮影されたというこの映画は、完成したときには「父親とは何か?」が芯になっている。ビンが意識的にそれをテーマに据えたわけではなく、撮っているうちに、テーマが向こうからやってきた。やってきた理由は、ビンがフラットな気持ちで被写体と向かい合い、自身の生き様もさらけ出しているからだろう。
「なぜ、父親による、女性や子どもへの暴力は世界からなくならないのか?」。ビンが自分の中でずっと問い続けてきた質問が、映画の真ん中であらわになる。
 こういう映画は、誰かを責めたり、あるいは国を告発したり、または「かわいそうな環境の中で懸命に生きる優しい人々」を演出したり、といった意図が垣間見えることもよくある。それに引き換え、『行き止まりの世界に生まれて』は、完全にフラットだ。誰が悪いか、誰がかわいそうか、といったことを問う視点は皆無で、ただひたすら「見ている」。
 登場人物たちはみんな、「ちょっと悪人で、ちょっと善人」だ。

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 ザックは子どもが生まれた時、親としてなんでもやろうと決意して、その子が「成功して幸せで善人になるように」と願っていた。
 でも、善人ってなんだろう?
 もしかしたら、人間として生まれたからには、決して「善人」にも「悪人」にもなれないのでは? 人間は、善も悪も内包する存在なのではないか……。

 ビンは、「男たち」の言い分だけでは映像を作らなかった。キアーやザックはスケートボード仲間であるし、まあまあ関係を築きやすかっただろう。けれども、彼らや自分の近くにいる「女性」とも関係を築き、腹を割ってもらい、それを撮影する。そこには険しい道のりがあったに違いない。そして、彼女たちもまた、決して「善人」ではなく、人間なのだった。

ナオコーラさんnoteプロフ211022~

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クレジット:(C) 2018 Minding the Gap LLC.

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