聴診器でなければ拾い上げられない声のこと。1本の映画から考える
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聴診器でなければ拾い上げられない声のこと。1本の映画から考える

 SDGs(Sustainable Development Goals)とは、2015年9月の国連サミットにて全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す17の国際目標。地球上の「誰一人取り残さない(Leave No One Behind)」ことを誓っています。
 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、映画が持つ多様なテーマの中には、SDGsが掲げる目標と密接に関係するものも少なくありません。たとえ娯楽作品であっても、視点を少し変えてみるだけで、われわれは映画からさらに多くのことを学ぶことができるはず。
 フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによる連載「観て、学ぶ。映画の中にあるSDGs」。映画をきっかけにSDGsを紹介していき、新たな映画体験を提案するエッセイです。

文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda

 今回取り上げるのは、是枝裕和監督の『誰も知らない』('04)。

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 この映画のもとになったのは、実際に起きた子どもの置き去り事件です。映画の冒頭に是枝裕和監督は「登場人物の心理描写はすべてフィクションです」という言葉を添えていますが、SDGsの「目標1:貧困をなくそう」「目標3:すべての人に健康と福祉を」「目標4:質の高い教育をみんなに」の切り口で観ると、現実社会の中で子どもたちのSOSを阻むものが浮き彫りになります。

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(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)

『誰も知らない』は、「手」が言葉以上に物語る映画

 写真を撮る時、出会う相手の「目」の表情と「手」の表情を大切にしている。目にはその人の「意思」が宿り、手にはその人の生きた「証し」が写るからだ。『誰も知らない』は、子どもたちの繊細な表情の移ろいに引き込まれるのはもちろんのこと、「手」が言葉以上に物語る映画だった。幼い妹とつなぐ柔らかな手、冷たくなった妹に触れ戸惑う手、家を空けがちな母親がマニキュアを塗ってくれた指先、泥まみれで地面を掘り、土がはさまったままの爪…。

 この映画は、1988年に起きた「巣鴨子供置き去り事件」をモチーフにしている。母親は4人の子どもを置き去りにし、時折様子を見に来ながらもネグレクト状態に置いていた。子どもたちは4人とも出生届けが出されておらず、公的な書類上、彼ら彼女たちはどこにも存在しないことになっていた。

 『誰も知らない』では、長男の明(柳楽優弥)に3人の妹、弟たちの世話を任せ、母親(YOU)は男性と暮らすため家に帰らなくなった。社会の中に「存在しないことになっている」きょうだいたちは母親から外出を禁じられていたが、明だけは買い物などの家事のため、家の外に出ることを許されていた。

 季節は巡り、真夏のうだるような暑さの中、家では電気やガス、水道などのライフラインはすべて止まっていた。こわごわと身を寄せ合うように室内で暮らしていた妹、弟たちも、家の外に出ざるを得ない状況に陥った。洗濯も水浴びもトイレも、全て近所の公園で済ませなければならなかったからだ。

 最初は「ママ帰ってこないの?」という会話を交わしていた子どもたちも、次第に諦めとともに、その話題を口にさえしなくなる。最も打ちひしがれるシーンで流れる、タテタカコさんの透き通る歌声だけが、この映画の救いだった。

 ある時、出張と偽り家を空けていた母親が一時帰宅してきた。そんな折に、長女の京子(北浦愛)は母親のマニキュアを床にこぼしてしまう。「何やってるのよ!」と怒鳴る母親に、京子は静かに言い返す。「お母さん、本当はどこ行ってたの?」。母親はその後、また姿を見せなくなり、連絡さえ途絶えてしまった。京子はそれを気に病んでいた。「私がひどいこと言っちゃったからかな?」と自分を責める。

 彼女の「手」はいつも、敏感に動いていた。妹のゆき(清水萌々子)が公園の遊具に乗った後の土を、さっと素手で払う。人に迷惑を掛けないように、自分の痕跡を残さないように、という彼女のその仕草は、何げないようで、私の中では最も胸を締め付けるものだった。

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是枝裕和氏の言葉を、今でも時折思い返す

 京子の姿は、小学校時代同じように親がほとんど家に帰らなかったという私の友人と重なった。母子家庭で育った彼女は、母親が時折テーブルに置いていくお金だけを頼りに生活を続けていた。周りの子どもたちと自分の境遇が違うことは、早い段階で気付いていた。ピアノ教室にも塾にも行けない。それどころか、遠足に行くためのお菓子さえみんなと同じように買えない。

 だから必死に周りに溶け込もうと、食費を削って、友達とおそろいの物を買った。習い事をしている、と嘘をついた。けれどもその嘘には、限界があった。やがてそれが周囲に知れると、彼女は孤立し、居場所を夜の繁華街に求めるようになった。

 補導され、警察には「次見つけたら“違うおうち”に帰ることになるよ?」と半ば脅しのように念を押され、唯一の“居場所”だった夜の街からも切り離されてしまったのだ。彼女も常に、人に迷惑を掛けないように、と限界まで我慢する人だった。

 虐待や孤立、と一言に言っても、複合的な問題が絡み合っている。この映画を観てSDGsの「目標1:貧困をなくそう」を選んだのは、『誰も知らない』で描かれている実態自体が決して「フィクション」ではないことが示されてきたからだ。

 厚生労働省が2020年7月に公表した「子どもの貧困率」は2018年時点で13.5%、約7人に1人だ。母子家庭など大人1人で子どもを育てる世帯の貧困率は48.1%にも上る。少子化問題について、「“子どもを生んだら大変だ”ばかり言っているから」と、政治の責任を省みず自己責任にする大臣がいたが、政治の側がその発想でいる限り、「子どもを生んだら大変」な状況は変わらない。

 「目標3:すべての人に健康と福祉を」を選んだのは、公的な対策がまだ、こうした問題に追い付いていないからだ。2019年度には、児童相談所が対応した児童虐待相談件数が19万3780件(厚生労働省まとめ)と、過去最多となった。これに対して児童福祉司をはじめ、現場の人手不足は常に叫ばれてきた。

 「目標4:質の高い教育をみんなに」も欠かせない。この映画に出てきた4人は、学校という場を知らずに育ってきていた。教育の場は単に、知識を詰め込むところではない。つながりを保ち、労働や搾取から守られる場でもある。4人が時折、はっとするほど大人びた表情や振る舞いをするのは、「子どもらしくいられる時代」を奪われてきたからにほかならない。

 ところが、こうした子どもたちの問題について声を上げると、「僕の周りの子どもはみんな笑ってるけどね」、と冷笑するような態度に出くわすことがある。「日本をおとしめるな」という言葉さえ投げ付けられる。「自分の周りにないから、ほかのところにも存在しない問題だ」と思い込み、「日本はそんな国ではないはずだ」とひたすら目をそらす態度こそ、子どもたちの声をかき消すものだろう。

 あの冷笑の、なんともいえない“にやにや感”は、SOSを出す明にへらへらと対応する、子どもたちの父親かもしれない男性たちに重なる。私は「最近の若者は」という理不尽な“若者バッシング”に出くわすたびに、思う。社会に大切にされてこなかった若者に、なぜ社会を大切にしなければならないのか説いても響かないだろう、と。

 この映画の監督である是枝裕和氏が、2015年4月に自身のTwitterに書き込んだ言葉を、今でも時折思い返し、心に刻み直している。「自分の声をより大きく遠くへ響かせる拡声器としてテレビを使おうとする人の道具になるよりも、声にならない声に耳を傾ける社会の聴診器としての役割を果たすこと。テレビが気にかけなくてはいけない公平とは、賛成反対の数を同じにすることではなく、まずはその声にならない声を音にすることだと思う」。

 この言葉はテレビだけに問われているものだろうか。メディアに、私たち市民に、聴診器でなければ拾い上げられない声は、届いているだろうか。

安田さんプロフ

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クレジット:© 2004 「誰も知らない」製作委員会

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