1本の映画から考える9.11――アフガニスタンを「忘れられた戦争」にしてはならない

 SDGs(Sustainable Development Goals)とは、2015年9月の国連サミットにて全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す17の国際目標。地球上の「誰一人取り残さない(Leave No One Behind)」ことを誓っています。
 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、映画が持つ多様なテーマの中には、SDGsが掲げる目標と密接に関係するものも少なくありません。たとえ娯楽作品であっても、視点を少し変えてみるだけで、われわれは映画からさらに多くのことを学ぶことができるはず。
 フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによる「観て、学ぶ。映画の中にあるSDGs」。映画をきっかけにSDGsを紹介していき、新たな映画体験を提案するエッセイです。

文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda

 今回取り取り上げるのは、ジョナサン・サフラン・フォアのベストセラー小説を映画化した『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』('11)です。

 米国の同時多発テロ「9.11」から20年。人々の抱える悲しみとともに、テロ後の世界情勢も見据え、SDGsの「目標16:平和と公正をすべての人に」を考えていきたいと思います。

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(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)

米国同時多発テロが起きた2001年9月11日、私は中学生だった

 夜、何げなくテレビをつけた。巨大なビルから煙が上がる映像とともに、キャスターたちの動揺を隠せない声が聞こえてくる。映画のCMか何かだと思った私は、ぼんやりと次の展開を待っていた。ところが、いつまでたってもドラマチックな音楽や、宣伝文句のテロップは流れてこない。それを現実だと受け止めるまでに、しばらく時間を要した。やがてビルは分厚い灰色の煙とともに、無惨にも崩れ去っていった。

 2001年9月11日の米国同時多発テロが起きた当時、私は中学生だった。数日後テレビをつけると、ニュース映像は、アメリカの街中に掲げられた星条旗で埋められていた。その旗を群衆が一点に見つめ、国歌を声高に歌うシーンで、私は思わずテレビを切った。恐かった。その光景が何かまた、誰かを傷つける不穏な空気に覆われているような気がしてならなかったからだ。そんなことを言うと「不謹慎」な気がして、誰にも話さなかった。

 大学生の時、崩れ去ったワールド・トレード・センターに父がいたという同世代と交流したことがある。「親を悲しませないように」「母の方が大変な思いをしている」と、これまで押し殺してきた感情が、日本に来て、耳を傾けようとする人々に出会い、初めてあふれ出したと彼は語った。

 誰とも話さないうちに、胸中の悲しみが自然消滅していくわけではない。むしろ心の中に蓄積する一方で行き場を失った感情は、解放するひとときがなければ、先鋭化していくことがある。

 映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の主人公であるオスカー(トーマス・ホーン)は、繊細で不器用な少年であり、そして周囲からは「少し変わった子」と言われていた。そんなオスカーの個性と丁寧に向き合う父のトーマス(トム・ハンクス)は、オスカーにとって親友のような存在だった。けれどもトーマスは、あの“最悪の日”に、帰ってこなかった。同時多発テロが起きた時、トーマスは商談でワールド・トレード・センターの106階にいたのだ。

 向き合いきれない感情を抱えてきたオスカーの体は、何とか心の折り合いをつけようと、自ら皮膚をつねったあざで埋められていった。ある日、オスカーはついに感情を爆発させる。キッチンじゅうの棚の物を投げ落とし、「ママならよかった。あのビルにいたのが」と母のリンダ(サンドラ・ブロック)に言い放ってしまう。パニック状態だったとはいえ、母を追い詰めたことで、彼はさらにまた深く傷ついていく。

 そんなオスカーは、ある「発見」をしていた。トーマスが亡くなって1年後、棚の上に置かれた父のカメラを取ろうと手を伸べたとき、底の深い青色の花瓶を落としてしまう。粉々になった破片の中に、「ブラック」と書かれた黄色い封筒とそこに入れられた鍵が紛れていた。父は鍵を瓶の底に隠していたのだろうか? 鍵は何の扉を開けるものなのだろうか? オスカーはニューヨーク中の「ブラック」という名の人々を訪ね歩いていく。その姿は、父に近づこうとしているというよりも、父の死という現実からとにかく全力で逃れようとしているように見えた。彼の悲しみが少しずつ解きほぐれていくのは、ずっと避けてきた「父についての会話」を、母と分かち合ったことだった。家に帰ってくるたびに「みんな、どうしてる?」と陽気に響き渡っていた声、コーヒー豆のたるに腕を突っ込んで店内の人に見られた時のこと、「ママを愛してる」とオスカーが語っていた言葉――母子にはそんな会話を始めるきっかけが必要だったのかもしれない。

映画の先に存在した不条理にも目を向けるきっかけに

 今年9月で、同時多発テロから20年がたつ。オスカーたちのように愛する存在を突如奪い去られた人々の悲しみと向き合うことと同時に、置き去りにしてはならないことがある。

 同時多発テロ後、当時のジョージ・W・ブッシュ政権は、この事件の首謀者は国際テロ組織「アルカイダ」の指導者オサマ・ビン・ラディン氏だとし、容疑者らをタリバン政権がかくまっているとしてアフガニスタンに「報復攻撃」を開始した。星条旗とアメリカ国歌で埋め尽くされていたテレビ画面は、乾いた大地と迷彩服の映像ばかりになった。ビン・ラディン氏は2011年、パキスタン北部の潜伏先で米海軍特殊部隊に殺害された。ビン・ラディン氏が死亡し、アルカイダの力を排除すれば、米軍が当初掲げていた「大義」はなくなる。

 ジョー・バイデン大統領は今年4月、アフガニスタンからの米軍の撤退を8月末で完了させると発表していた。タリバンが国を制圧する可能性を問われ、バイデン氏は「アフガニスタンには世界中のどの軍にもひけをとらない、30万人の軍がいる」と、アフガニスタン政府軍には十分な力が備わっていると強調していた。

 ところが統計上も、バイデン大統領の「反論」とは真逆の数字が示されていた。国連アフガニスタン支援ミッション(United Nations Assistance Mission in Afghanistan=UNAMA)は、今年1月から6月までの民間人犠牲者は1659人、負傷者は3254人、そしてその約半数が女性と子どもだったと発表し、とりわけ5、6月に犠牲者が急増していると指摘していた。その後もタリバンは各地で支配域を拡大し、8月15日、ついに首都カブールを制圧した。

 今後、どのような「統治」が行なわれるのだろうか。女性や人権活動家の安全は守られるのだろうか。懸念を挙げればきりがない。そしてこの20年間、巻き込まれ命を奪われてきた何万人もの市民を思わずにはいられなかった。

 今回、SDGsの目標「16:平和と公正をすべての人に」を選んだのは、この映画をオスカーの悲しみにとどまらず、その先に存在した不条理にも目を向けるきっかけにしたかったからだ。「誰も置き去りにしない」と掲げるからには、アフガニスタンを「忘れられた戦争」にしてはならないはずだ。

 オスカーは、父の最期と自分の行動を重ね合わせていた。父がワールド・トレード・センターの一室から最初の留守電を家の電話に吹き込んでいた頃、オスカーは学校のバスケットコートにいた。父がその次の留守電を入れた時、自分は学校の教室で窓に張り付いた蜂を眺めていた。そして―――と、別々の場所にいながらも、確かに自身と父が同じ時を生きていたことを思い起こしていく。

 オスカーの悲しみは、オスカーの悲しみとして存在し、誰かと比べるべきものではない。ただ、オスカーが鍵穴を必死に探してニューヨークの街を走り回っている間、アフガニスタンの村々で、空爆の音に耳をふさぎ、部屋の奥で震えていた子どもたちも、確かに「同じ時」を生きているのだ。

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