みんなのための辞書 #山崎ナオコーラによる線のない映画評
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みんなのための辞書 #山崎ナオコーラによる線のない映画評

 作家の山崎ナオコーラさんが綴る、映画をテーマにした連載エッセイ。今回は、「オックスフォード英語大辞典」の誕生の陰に秘められた実話を描いた『博士と狂人』('19)について書き下ろしてもらいました。

文=山崎ナオコーラ @naocolayamazaki

 みなさんは辞書のことを、どんな本だと捉えているだろうか?
「文章のルールが載っている本」「言葉の正しい使い方を調べられる本」だと思っている方もいらっしゃるかもしれない。

 けれども、実は、文章にルールなどない。言葉の使い方に間違いなんてない。
 誰もがしゃべることも書くことも好きなふうにできる。すべてが自由で、決まりはないのだ。
 では、辞書には何が載っているのか?

 辞書編さんが主題の映画『博士と狂人』の中でも言われているように、言語の歴史が載っている。これまでの人間の営みを振り返りながら、その言葉がどんなシーンでどんなふうに使われてきたかが掲載されている。「使用例」と、そこから浮かび上がる「意味」と、いろいろな文章の中で共通しているものとして読み取れる「文法」だ。そう、使用例をいくつも見ていけば、文法のようなものも浮かび上がる。ただし、文法はルールではない。例外はたくさんあり、逸脱して使用しても問題ない。文法とは、言葉を理解しやすくするための秩序なのだ。「こういうふうに使われがちだった」と秩序立てて認識していけば、言葉というものがなじみやすくなる。多くの人に言葉が開かれていく。

 『博士と狂人』は、世界最高峰と称される『オックスフォード英語大辞典』、通称OED編さん時の出来事についてサイモン・ウィンチェスターが記したノンフィクション『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』が原作となっている。

 ときは19世紀。独学で言語学の知識を習得したジェームズ・マレー(メル・ギブソン)は、オックスフォード大学で英語辞書編さん計画の中心にいる。マレーはすべての英語の言葉を集めたいと考えていた。単語カードを作り、17世紀の使用例、18世紀の使用例、と調べて記入していく。だが、スタッフも時間も全然足りない。マレーたちは疲労困ぱいしていく。そこで、「英語を話す人々へ 辞書作りのために本を読み 引用を送ってください」と手紙を書き、世間に広くボランティアを募った。手紙はチラシとして本などに挟み、多くの人の手に渡るようにした。そのチラシが、アメリカ人の元軍医で、精神錯乱のため殺人を犯して精神病院に収監されていたウィリアム・チェスター・マイナー(ショーン・ペン)のもとにも届く。ボランティアを希望する人は単語カードを郵送することになっている。マイナーは読書が趣味だったため、驚くほど大量の単語カードを作り、マレーへ送った。そこから、マレーとマイナーの間に友情が芽生える。辞書作りの道が開かれる。

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 ただ、そもそもこの辞書は国益のために作られている。言葉を支配すれば、人間も支配できるからだ。
 国の辞書編さん担当者は、
 「我々の帝国を見たまえ 世界の面積と人口の4分の1を占め- 史上最大の自治領を誇る そこで貿易をしたければ 陛下の言葉を話す必要がある 英語をね」
 と地図を指差しながら語る。
 マレーは反発する。
 「秩序づけられた英語を誰でも使えるようにする」
と自身の仕事を宣言する。

 英語があれば、スコットランド人もアメリカ人も関係なく、コミュニケーションを取ることができ、友情を築ける。
支配のためではなく、罪人を許すためにも使えるのが言葉という道具なのだ。

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 ちなみに、ここで正直なところを書いておくと、私は“反英語主義者”だ。
 私は、英語を話せない。何度も習得しようとして挫折し、もう勉強しないことに決めた。もしかしたら数年後には翻訳機が発明されるかもしれないし、英語ができなくても生きていけるようになるんじゃないか、と期待している。なんにせよ、「みんなと同じ言葉を話せ」という圧力にはなじめないし、英語を勉強しないとやっていけない世界なんて変だと思う。この先の人生、私は、日本語と、日本の古語を学びながら過ごそうと考えている。

 世界は基本的に同一化に向かうもののようで、今後の世界は英語が席巻していくらしい。すでに、いくつもの民族の言葉が消滅している。日本語も、ゆくゆくは消えていく運命にあるのかもしれない。
 だからこそ、あえて、多くの人には通じない言葉を勉強したくなった。
そんなわけで、英語の辞書が力を持つことに、私は反感を抱いている。

 ただ、『博士と狂人』を観て、民族を超えて通じる言葉があること、それも、秩序立っていて多くの人に受け取りやすい言葉があることは、世界に必要なんだろうな、としみじみ感じた。
 英語も、民族固有の言語も、どちらも大事にしていかなければならないわけだ。

 『博士と狂人』は、シーンとしてはこつこつ仕事をしていくところよりも、陰惨な殺人や、愛や許しが語られる箇所の方が多く、どろどろの人間ドラマといった印象を抱くかもしれいない。
 だが、俯瞰(ふかん)して観れば、辞書作りと共に「言語とは?」ということを考えていくことができる。人間は古くから戦争や殺人を繰り返してきたが、言語が発達したおかげで、愛や許しといった方向の思考もできるようになった。遠くにいる人物ともつながれる。

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 実は私も、ある遠くにいる人物と、コミュニケーションを取りたいと願っている。今は方法が思い付かない。けれども、この映画を観て、勇気をもらった。言語学博士と刑務所の中にいる人でも通じ合えるのだ。信念があれば、どんな壁でも乗り越えて、コミュニケーションが取れる。

ナオコーラさんプロフ20210625~

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