
私の生きるヒント #山崎ナオコーラによる線のない映画評
作家の山崎ナオコーラさんが綴る、映画をテーマにした連載エッセイ。今回は、天才ピアニストであり指揮者のJ・C・マルティンスの半生を描いた音楽伝記『マイ・バッハ 不屈のピアニスト』('17)について書き下ろしてもらいました。
文=山崎ナオコーラ @naocolayamazaki
「芸術は、特別な人のためにあるものなんじゃないか」なんて、つい思ってしまうことがある。
「才能がある人のもの」「勉強した人のためのもの」という雰囲気が、日本の中で聞く「芸術」という言葉の周りには漂う。
でも、前々回の『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を取り上げたときに出会った、
「すべての人と芸術を共有したい」
というセリフのように、本来の芸術は才能や知識量や年齢や国籍や性別に関係なく、誰でも自分のものにしていいはずだ。
今回取り上げる作品、『マイ・バッハ 不屈のピアニスト』を観て、さらにその思いを強くした。
ブラジル出身のピアニストで、現在80歳になるジョアン・カルロス・マルティンスの伝記映画だ。
20歳のときにカーネギーホールで華々しいデビューを飾り、バッハの弾き手として世界的な活躍を始め、多くの期待を集める中、けがや暴漢に襲われる事件などによって、右手の何本かの指をうまく動かせなくなっていく。何度か引退し、銀行や石油会社などの別の仕事をしたり、指揮者に転向したりして成功を収めるのだが、やがてピアノも再開し、左手と、右手の指1本だけで弾き続ける。
青年時代をロドリゴ・パンドルフ、壮年時代以降をアレクサンドロ・ネロが演じる。たくさんの演奏シーンが聴きどころで、それらはすべて本人の音源が使われている。
そして、なんと、ラストには、本人による演奏シーンが長尺でしっかりと入れられている。
指が動かせないピアニスト、というところが多くの人の心をつかみそうだが、「障害のある人」の努力を賛美しよう、といった視線で作られた映画ではない。
途中で、ちょっと笑ってしまうところもあった。
『コレラの時代の愛』('07)という映画を観たときに、いちずに片想いしているはずの主人公が途中で何人もとセックスしまくるシーンがあって笑ってしまったことがあるのだが、あれに似た感じで、「え? そうなの?」と引いてしまうというか、人間ってそんなものかと肩をすくめるというか……。
「(芸術の探究は)恋に似ている」
「破滅的な探究は性的衝動である」
といったセリフがあるので、それを表現しているのかもしれないが、やっぱり笑ってしまう。
体に傷を負うことを「不幸なことに」とか、「不慮の事故によって」とか表現するけれども、ジョアンの場合は、それがあまりしっくりこない。真面目な人柄っていうわけでもないのだ。
確かに音楽へ向かって多大な努力を続ける人生なのだが、結構ふざけているし、遠回りもする。スポーツしたり、恋愛で道を外したりというのは、「ピアニストは日常においても常に指を守る」「コンサート前や録音の時期などは体調管理をしっかりする」といったイメージからは外れる。
だから、指にけがをするシーンで、「かわいそう」というより、「そうかー、そうなったかー、人生ってそういうこともあるんだなー」という感想がまず湧いた。
指が以前のようには動かない、前に褒められたときのような動きを今はもうできない、というのは本人にとって地獄の苦しみだろう。
けれども、一歩引いて見ている者からすると、「これからは別のアプローチをするんだろうな」「違うことをすれば芸術を愛していけるんじゃないの?」と思える。
もしも、それに似た状況に私自身が陥ったら、と考えると、何も思い付かず、何もせずにやりたいことあきらめてしまいそうだが、一歩引いて他人を見れば、いくらでも愛し方が思い付く。
そう、ジョアンの生き方が、観ている者の人生を照らしてくれる。
そうだ、私も、まだこの道を進める。ジョアンのように、自分もやってみよう。『マイ・バッハ 不屈のピアニスト』を観て、生きるヒントをもらえた。
年齢を重ねていくと、「頂点にいたときのようなことは、これからは絶対にできないんだ」「みんなから寄せられていたあの期待に、今は決して応えられない」と思うことがある。私にもあるし、きっと、多くの人にある。それは、ピアノやけがといった、他人から見ても大きいと感じられるものだったり、わかりやすかったりするものではなく、小さいものかもしれない。でも、「ああ、今となっては、失ってしまった。もう、できない」というものを、ある程度の年齢になると誰もが持つ。
「辞書によれば 芸術への執着は “破滅的な探究“」
というセリフがある。
もちろん、ジョアンは才能ある芸術家だ。ジョアンは何かにとりつかれたようにピアノに向かう。
でも、とりつかれることって、誰にでもある。
「才能ある芸術家」という言葉に自身を重ねる人は少ないだろうが、ジョアンのとりつかれ方に共感を覚え、自分の姿を見る人は結構多いのではないだろうか。
執着は、才能ある芸術家の特権ではない。
芸術は、大きなコンサートホールにだけあるものではない。
人生の中にあるちょっとした情熱、これなしには生きられないと思う炎、それらはみんな芸術だ。才能のあるなしは関係ない。
体の状況などによって、できないことが増えていっても、芸術への道は断たれない。
誰でも、ジョアンのように生きていいのだ。
誰の人生の中にも芸術があるし、誰でもその道を進める。
ジョアンはそれを知ったから、経済的に恵まれない若手演奏家たちを助ける社会プログラムを主催したり、子どもたちへ音楽を教えたりすることも始めたのではないか。
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