愉快で魅力的で、常識にとらわれない自由な女性“パピチャ”――1本の映画タイトルに込められた想いを知る

 SDGs(Sustainable Development Goals)とは、2015年9月の国連サミットにて全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す17の国際目標。地球上の「誰一人取り残さない(Leave No One Behind)」ことを誓っています。
 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、映画が持つ多様なテーマの中には、SDGsが掲げる目標と密接に関係するものも少なくありません。たとえ娯楽作品であっても、視点を少し変えてみるだけで、われわれは映画からさらに多くのことを学ぶことができるはず。
 フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによる「観て、学ぶ。映画の中にあるSDGs」。映画をきっかけにSDGsを紹介していき、新たな映画体験を提案するエッセイです。

文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda

 今回取り上げるのは、アルジェリア出身のムニア・メドゥールの長編監督デビュー作『パピチャ 未来へのランウェイ』(’19)。主人公を演じたリナ・クードリが第45回セザール賞有望若手女優賞に輝いた作品です。

 厳しい時代を生きながら、女性への抑圧に力の限り抵抗する主人公たちの魂の叫びから、SDGsの「目標5:ジェンダー平等を実現しよう」を考えていきたいと思います。

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(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)

解放されても終わらない、「イスラム国」による心の支配

 2016年夏、灼熱の季節のイラクは、北部地域でも50℃を超える日があり、私はうだるような暑さの中、国内避難民キャンプ内を歩いていた。圧するような日光の下、山から吹く風も熱風だ。見渡す限り広がるテントの数に比べ、炎天下を歩く人の姿はまばらだ。当時はまだ過激派勢力「イスラム国(IS)」がイラク第2の都市、モスルを占領しており、激しい戦闘が続いていた。北部のクルド自治区に、家を追われた多くの人々が身を寄せていた。

 キャンプ内の小さなテントを訪ねると、そこにはマットレスと最低限の家財があるだけだった。この空間で家族合わせて13人以上が避難生活を送っていたが、とても1年以上暮らしているとは思えないほど生活のにおいがなかった。16歳だというアムシャさん(仮名)が、ここにたどり着くまでの日々のことを、ぽつり、ぽつりと語ってくれた。

 アムシャさんが生まれ育った町、シンジャルの一帯には、アムシャさんの家族を含め、少数宗教ヤズディ教の信徒たちが暮らしていた。2014年8月3日、ISが街を急襲し、一家は学校のような施設に連れ去られる。兄たちを含め男性は、荷物運びなど過酷な労働を強いられた。ISはヤズディ教を「邪教」とみなし、アムシャさんたちに改宗を迫った。「毎日コーランを朗読させられ、フレーズが読めなければそのたびに殴られました」と当時を振り返る。それは壮絶な日々の始まりに過ぎなかった。

 その後、ISはヤズディ教徒の女性たちの「売買」を始める。アムシャさんは既に妻子のあるIS兵士の「妻」になることを強要させられた。当時アムシャさんはまだ14歳だった。

 ISの襲撃から半年がたった頃、ようやく隙を見て脱走し、それから3日間歩き通した。決死の覚悟で逃れてきたものの、ようやくたどり着いた避難民キャンプに父の姿はなかった。学校に行くこともなく、外へ息抜きに行くこともなく、彼女はじっと、テントで日々時間が過ぎるのを待っていた。

 避難生活を送るヤズディ教徒の人々が、口々に語ることがある。

 「解放されても私たちの心はまだ、彼ら(IS)に支配されたままなの。だって毎日、戻らない家族たちのことを考えて生きているのですから」

誰しもが自身の色彩で生きられるために、「らしさ」の呪縛を解いていこう

 過激派勢力の台頭と女性たちへの人権蹂躙(じゅうりん)は、過去にも繰り返されてきたことだった。映画『パピチャ 未来へのランウェイ』の舞台となった90年代のアルジェリアでも、女性たちは激しい弾圧にさらされていた。

 1991年12月、イスラム原理主義政党が8割以上の議席を得ると、翌月に軍がクーデターを決行し、事実上の内戦へと突入していく。それからの“暗黒の10年”の間に、20万人もの命が奪われたとされる。映画は、内戦時に10代だったメドゥール監督自身の体験にも基づいている。

 大学生のネジュマ(リナ・クードリ)は、ナイトクラブで自作のドレスを売りながら、ファッションデザイナーになることを夢見ていた。ところが、情勢の変化が徐々に、彼女の日常にも影を落とし始める。TVやラジオでは連日、イスラム過激派によるテロの犠牲者を伝えるニュースが聞こえてくる。不穏な空気は、過激派によるものだけではなかった。大学の壁を、“女の正しい服装”とされる、頭や体を覆う布“ヒジャブ”をかぶった女性たちの絵が描かれたポスターが埋めるようになった。ほかにも外国語教育の授業が妨害されるなど、徐々に弾圧は露骨になっていく。

 友人のボーイフレンドは路上にいたジーンズ姿の女性を、「あんなの裸みたいだ、正しい服装をすべきだ」と嘲笑した。行きつけの布生地店の店員は、「神の教えに従うべきだ」と大真面目に彼女を諭そうとする。「無知な人たちが偏見を振りかざして暴走してる」とネジュマは憤る。反面、路上でしつこく声をかけてきたり、隙を見て暴力を振るおうとしたりする男たちの姿が、ネジュマにとって脅威となっていく。信仰を振りかざす者と、女性を性的対象としか見ない者、対照的なようで、結局両者は共に、女性をさげすみ、管理の対象とみなし、自身の支配欲を満たすための道具にしているのだった。

 今回、この映画を「目標5:ジェンダー平等を実現しよう」の切り口から考えたのは、描き出されている国外の女性たちの深刻な弾圧に目を向けたかったことはもちろん、構造的な問題は私たちの身近でも再生産されていることをあぶり出したかったからだ。

 女性たちが肌を露出しているから殺害されていると言わんばかりの男子学生に対し、ネジュマは「服装じゃない、その偏見が女を殺す」と毅然(きぜん)と反論する。暴力を非難せず、女性の服装を批判するような言動は、残念ながら性暴力事件が報じられるたび、日本社会でも飛び交っている。どんな服装や下着であっても、それは性行為への「同意」ではない―――偏見の目にあらがおうと、SNS上では「#私がそれを着たいから」というムーブメントが起きたこともある。

 “女の正しい服装”のポスターのように、「女性らしさ」という像を一方的に社会が押し付けてくる風潮も根強く残っている。「女性なら料理くらいできなくちゃ」「社会に物を言うのは女性らしくない」「女性がいる会議は長くなる」…挙げればきりがないほどだ。暴力は、こうした日常の抑圧の積み重ねを放置し続けることで起きていくものなのではないだろうか。

 映画のタイトルにもなっている「パピチャ」とは、アルジェリアのスラングで、「愉快で魅力的で、常識にとらわれない自由な女性」という意味なのだそうだ。ネジュマはその言葉を貫き生きようともがいていたように思う。彼女は「ハイク」と呼ばれる一枚の布から、プリーツや折り目など、あらゆる工夫を凝らし、多様なデザインを次々と生み出していった。町じゅうが徐々に黒服に染まっていく中で、その真っ白な布は抵抗の象徴に見えた。社会が押し付けてくる「カラー」に染まらず、誰しもが自身の色彩で生きられるためには、「らしさ」の呪縛を解いていけるかが鍵になるはずだ。

安田さんプロフ
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