イラストレーター・信濃八太郎が行く 【単館映画館、あちらこちら】 〜「新宿武蔵野館」(東京)〜
名画や良作を上映し続けている全国の映画館を、WOWOWシネマ「W座からの招待状」でおなじみのイラストレーター、信濃八太郎が訪問。それぞれの町と各映画館の関係や各映画館の歴史を紹介する、映画ファンなら絶対に見逃せないオリジナル番組「W座を訪ねて~信濃八太郎が行く~」。noteでは、番組では伝え切れなかった想いを文と絵で綴る信濃による書き下ろしエッセイをお届けします。今回は東京の「新宿武蔵野館」を訪れた時の思い出を綴ります。
文・絵=信濃八太郎
早朝の新宿に想いを馳せる
10月の早朝、靖国通りに立つ。ごみを集める収集車、わがもの顔のカラスたち、出勤する人、千鳥足で駅に向かう人。学生時代、深夜にビル清掃のアルバイトをしていた頃の帰り道に見慣れていた、朝の新宿の光景が懐かしい。
今回は「新宿武蔵野館」を訪ねる。取材前に、まだ動き出す前のこの街を久しぶりに歩きたかった。きっかけは心に直球で突き刺さった映画『佐々木、イン、マイマイン』(’20)だ。俳優になるために上京したものの芽が出ずにくすぶっている主人公の悠二を藤原季節さんが演じている。高校時代の友人と偶然再会し二人で飲み交わした後、靖国通りで別れ、ひとり缶ビール片手に去っていく明け方のシーン。青みがかった朝靄の中、自分の不甲斐なさに腹を立てているようなやけっぱちにも映る後ろ姿に、深夜にひとりモップがけなどしながら、先が見えずに沈みがちだった当時の自分が重なって、何度もあったそんな徹夜明けの朝のひりつく気持ちを思い出したのだ。
今あの風景を見たらどんな感覚になるんだろうと、思いつきで早めに家を出てみたけれど、取材の前にやることではなかった。ふらふら歩いている間に、すっかり悠二の気分に浸ってしまった。いや、浸っている場合じゃないのだけれど。映画のシーンと同じ道を歩いていたら、すぐ新宿武蔵野館に着いた。こんな気分を引きずったままインタビューに臨んではまずい。もやもやを追っ払うように「カーァー!」と元気にカラスの鳴きまねをしてみたら、目が合ったプロデューサーの尾形さんに、いったい何をやってるのかと笑われた。
新宿武蔵野館は2020年に、誕生から100周年を迎えた。「映画の殿堂」として、大正、昭和、平成、令和と四つの時代を超えて人々から愛されてきた映画館だ。取材に先んじて拝読した「映画の殿堂 新宿武蔵野館」によると、娯楽の中心といえば銀座、浅草がメインだった時代に、日暮れとともに人通りも少なくなり、どこかうらさびしさが漂う町だった新宿に人を集めようと、いわば「町おこし」のために商店主たちがお金を出し合って造ったのだという。なんだ、志はこれまで取材してきた新潟の「シネ・ウインド」や富山の「ほとり座」、茨城の「あまや座」や東京・青梅の「シネマネコ」などと同じじゃないか。
当時の血気盛んな商店主たちが夜な夜な集まって、熱く我が町の未来について話し合っているところを想像するだけで楽しくなる。映画界や興行など全く知らない、いわば素人たちによる「思いつき」で生まれた映画館であった。当然といえば当然だが、当初は呆れた眼差しを向けられたという。
「あんな場末の町に三階建ての映画館を建てるなんて!」
その結果が今目の前にあるこの“場末の町”の100年の歴史である。言いたい人には言わせておけばいいと、熱意を持って突き進んだ先人たちが笑いかけてくれるようだ。
新宿武蔵野館のディスプレーに圧倒される
三階までエレベーターで上がると、上映作品のポスターが並ぶ通路の先に明るいロビーが広がる。黄色いネオンサインが眩い売店では、ポップコーンはもちろん、他の映画館で見ることのない外国のスナックがたくさん並んでいるほか、なぜかとうがらしまで売っている。さらには100周年を記念して作られた武蔵野館のオリジナルグッズを飾る素敵なショーウィンドー、そして何よりも上映中の作品を紹介するディスプレーがすごい。どれもものすごく凝っている。
お話を伺う支配人の菅野和樹さんが迎えてくださった。
「2016年にリニューアルをしまして館内の内装ががらりと変わりました。当館には三つのスクリーンがあるんですが、コンセプトとしては、セットの裏側にいるような、上映作品それぞれの世界に入ったような気分を味わえるイメージです」
なるほどその通りで、まるで映画の撮影スタジオの中にいるような趣だ。なかでも高畑充希さん主演の『浜の朝日の嘘つきどもと』(’21)のディスプレーに驚いてしまった。これは…なんと説明したらいいんだろうと戸惑っていたら菅野さんが笑っておっしゃった。
「はい。劇場の中に映画館を作ってしまいました」
そう、壁全面に作品の舞台となる映画館「朝日座」の入り口がおおよそリアルなスケールで再現され、チケット窓口に高畑さんが座っているのだ。高畑さんの周りには細かな受付用の小道具、さらには「朝日座」にて上映中の作品のポスターや上映スケジュール、なんと領収印が押されたチケットの半券まで再現されている。ディスプレーという言葉で片付けるにはあまりに凝り過ぎている。
「そうなんです、うちのスタッフと、こういうことをやってくれる会社と、一緒になって毎回作っています。映画を観る前もお楽しみいただけますが、鑑賞後に見ていただくとまた新たな気づきがあったりして、本当に細かいんですよ。朝の開館前に設営しているので、出社してみたら昨夜とがらりと変わっていて、僕も驚くことが多いんです」
この遊び心、ホスピタリティが武蔵野館らしさを特徴づけている。他にも東出昌大さん主演の『草の響き』(’21)のディスプレーでは函館の街並みが一望できる坂の上に立つ気分を味わえたり、ムーミンを生んだ作者を描いた『TOVE/トーベ』(’20)ではなんとトーベ・ヤンソンの原画が飾られている。原画だけが持つその空気感にしばし圧倒されてしまった。原画を収めた展示ケースそのものも、この作品のためだけに作られたという。
「そしてこちらが武蔵野館名物、水槽のディスプレーです」
ビーニー・フェルドスタイン主演『ビルド・ア・ガール』(’19)のディスプレーの前に立ちにこにこと笑う菅野さんの向こうで、魚たちが気持ちよさそうに泳いでいる。何か魚が関連するシーンでもあるのかと思いきや、そういうわけでもなく、この水槽はここに常設されていて、毎回作品ディスプレーに組み込まれているのだそうだ。
「作品に合わせて中のお魚さんも入れ替わります。上映期間中ここで働いてもらって、上映が終わるとまた戻り、次回作品に合わせて次のお魚さんが来るんです」
至って真面目にお話しされる菅野さんの言葉に吹き出してしまった。どうして水槽なのだろう。
「きっかけは僕が入る前のことなので知らないのですが、癒やされるといってここを毎回楽しみにしてくださるお客様も多いんですよ」
そう言われて、水槽用ライトに照らされて泳ぐ魚たちを眺めるうちに、この水槽自体がスクリーンのようにも見えてきた。一匹一匹が一人一人の役者のようで、性格までなんとなく違って見えてくる。勝手な思い込みである。人はどこにでも物語を見いだす。きっとこんな風に楽しんでいる間に、あっという間に上映時間となるのだろう。
『佐々木、イン、マイマイン』との偶然のつながり
劇場内を案内していただいた。赤いシートの「スクリーン1」は三つのうちもっとも広く、車いす席1席を含めて129席ある。頭まで包み込んでくれるような柔らかなシートの座り心地に気持ちがほぐれる。菅野さん一番のお気に入りという最前列の中央に並んで座りお話を伺った。
「ミニシアターにはそれぞれアジア作品に強いとか、アニメーションが得意とか、特色があると思うんですが、当館はノンジャンルです。枠にとらわれることなく、素敵な作品であれば何でもかけています」
お客さんもアート作品が好きな若い人から、それこそ若い頃からこの劇場に何十年も通っているという武蔵野館の大先輩まで来るそうで、厳選されつつも偏りのないラインナップが歓迎されているのだろう。菅野さんも観る側として来られていたのだろうか。
「はい。映画も好きなんですが映画館で観るというのが大好きでして、どうしてもここで働きたく、アルバイトから入りました。一番思い出深かった出来事は、つい最近なんですが、ここでスタッフとして一緒に働いていた友人が映画を撮りまして、当館で上映されたことです」
何の作品か伺ったらなんと『佐々木、イン、マイマイン』だった。内山拓也監督が菅野さんのスタッフ仲間だったという。ちょうど今朝、あの靖国通りのシーンをたどりながらここまで来たことを興奮しながらお伝えしたところ笑って受けてくださった。
「そうでしたか。よく知った風景だったのかもしれませんね。うちのスタッフも何人かエキストラで参加しています。内山監督は一緒に働いていた当初から映画監督になりたいと言ってまして、『佐々木、イン、マイマイン』以降は忙しくなってしまってなかなか会えなくなりましたが、本当につい最近まで映写業務などもやってもらってたんですよ(笑)。お客さまと直接つながる「劇場」の業務を全て知っているからこそ作れる作品ということは一つあると思いますね」
その後すっかり舞い上がってしまって『佐々木、イン、マイマイン』の感想を菅野さんと二人で話していたのだけれど、どこまでも素人にできている自分は、カメラの前でネタバレもあったものじゃない浮かれっぷりで話してしまい、「使えないじゃないですか」と番組スタッフの佐々木さんに呆れられてしまった。隣で菅野さんも苦笑いしてらっしゃる。まだ観てない方はぜひ観てみてください。自分の足元を確認したくなった時、いつでも引っ張り出せるところに置いておきたいすばらしい作品です。
菅野さんが続けてお話しくださった。
「内山監督とも話していたのですが、映画って、創る現場が入り口だとしたら、映画館は出口なんですよね。お客さまに観ていただいてようやく完成する。それならば私は出口の側をしっかり受け持ちたいなと思ってるんです」
お二人の友情、映画愛に触れたようで、胸が熱くなった。
そう思ってあらためて館内を見渡せば、本当に映画愛、映画館愛にあふれた場所だ。同じ作品でも「ここで観て良かった」と誰もが感じられる工夫が、先ほどのディスプレーしかり、館内の至るところにある。トイレの鏡周りにはいわゆる「女優ライト」も設置されていて、往年のハリウッドの楽屋のようだ。明るく照らされた自分の姿がいつもよりどこか上品に映っている気がして、身だしなみの一つでも整えようという気分になる。本日二度目の勝手な思い込みである。
新宿武蔵野館の歴史に触れる
取材をしている間に開館のための準備も進んで、館内に漂い始めたポップコーンの匂いがたまらない。朝一番の映画館と弾けたばかりのポップコーンの組み合わせは最強だ。引き寄せられるように売店に足が向かう。そうだ、入ってすぐ気になったのですが、このとうがらしは何ですか?
「江戸時代、この辺りはとうがらしの産地だったそうです。当時の蕎麦ブームにのり内藤新宿の周辺で栽培された『内藤とうがらし』は、江戸中で人気になったそうで、それを復刻させた商品になります。ネットでも買えるのですがいつも置いてあるのは当館だけのようで、知っているファンの方には、映画は観ないでとうがらしだけ買って帰る方もいらっしゃいます。はい、それでも大歓迎です。とうがらしを買って、お魚さんを眺めて、ディスプレーを見ていただいて、気になった作品があればチケットをご購入いただければ」
穏やかに笑う菅野さんが続けてお話しくださる。
「コロナ禍を通じて、改めてお客さまあっての武蔵野館だということを痛感しました。劇場があって、映画を上映できて、観たいと思ってくれる方がいて、それを認めてくれる社会があって。どれが欠けても成り立ちません。支えられているからこそ存在できる。本当に感謝しています」
逆の立場から言わせてもらえば、明かりが落とされた劇場の暗闇の中、何も考えずに世界から遮断される二時間が、その後、現実と向き合わなければならない自分を支えてくれる部分もある。劇場が励ましてくれている。こちらこそ本当に感謝しています。
取材を終えておいしいポップコーンをいただいていたら総支配人の河野義勝さんがごあいさつに来てくださった。とてもお話し上手で、またそれがべらぼうに面白い。戦後の混乱期に武蔵野館を、一館から最大で二十数館を擁する武蔵野映画劇場(現・武蔵野興業株式会社)グループに育て上げた実業家、河野義一氏のお孫さんにあたる現代表取締役社長だ。祖父である義一さんのエピソードをいろいろと聞かせてくださった。
「祖母から聞いた話だけど、戦争が終わってこの辺りは焼け野原になってね。仕事がなくなった人を見れば『うちで働けよ』って。武蔵野館も、壁は焼け焦げ天井は穴が開いて、夜空に星がたくさん見えてたんだって。それを見上げて、今にこの星の数ほど映画館を造ってやるって言ったんだってさ。この人はたいそうな夢想家だと思ったもんだって言ってたよ」
豪快に笑ってお話しくださった。
夢で終わらず本当に実現したことを知っている現在からみれば、その日、夜空に向けて放たれた言葉に込められた切実さがひしひしと伝わってくる。終戦からわずか三カ月後の11月に武蔵野館は営業を再開する。翌年には、戦時中には敵性映画とされてかけることのできなかったチャップリンの『黄金狂時代』(’25)や『カサブランカ』(’42)も上映され、天井には穴が開いたまま、座る椅子もない劇場に人々があふれ返ったという。
「疲弊した大衆の心を癒やし、生きる希望を見いだす救世主としては、映画が最も大きな力を持つと信じて」いたと「映画の殿堂 新宿武蔵野館」に記されている。
戦争とコロナ禍とを同じように語ってはいけないと思うけれど、疲弊した心を映画が癒やしてくれることは今も昔も変わらない。最後に貴重なお話を聞かせてくださってありがとうございました。
「いやいや、それより彼(菅野さん)は本当に映画館が好きでね。一緒に香港に出張した時も時間があればひとりで劇場をたくさん巡ってたもんな!」と、しっかりスタッフをねぎらってお話を終えられるところに、祖父から孫へ引き継がれる人情味ある懐の深さ、ひいては100年もの間、人々から愛されてきた新宿武蔵野館の根っこが感じられた。そしてそれはこれから先の100年に向けて、受け継がれていくことだろう。
*参考文献「映画の殿堂 新宿武蔵野館」(武蔵野興業株式会社監修、株式会社開発社刊)
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