クリストファー・ノーラン監督を『TENET テネット』と過去作から考察。彼は発明家であり職人だ
文=SYO @SyoCinema
クリストファー・ノーラン監督の最新作『TENET テネット』(’20)が、早くもWOWOWで初放送を迎える。
全世界がコロナ禍にあえぐ中、2020年9月に日本公開され、興行収入27億円(※)を記録した本作。東京・グランドシネマサンシャイン 池袋においては、IMAXのオープニング興行収入が世界第1位となり、ノーラン監督から感謝状が届いた。
これまで観たことのない「逆行」をテーマにした『TENET テネット』は映画好きのみならず大いに話題となり、未知の“体験”に驚かされる観客が続出。複雑な物語の考察も加速し、一方でキャラクターの二次創作ブームにも発展。さまざまな広がりを見せていった。海外の大作映画の日本公開が激減した中、気を吐いた作品であり、改めて“映画の力”を感じさせてくれた存在として、人々の心に刻まれたのではないだろうか。
『TENET テネット』の基本構造は、ノーラン監督が愛してやまない「007」シリーズだ。世界の危機を救うため、すご腕の主人公が各国を飛び回るスパイ・アクション。対決する巨悪に捕らわれの美女、頼りになる相棒など、スパイ映画への憧憬が随所に感じられる。ミッションの目的は「第3次世界大戦を防ぐ」であり、テイスト自体はノーラン監督の作品の中でも極めて明快。正義の味方が悪に立ち向かう「勧善懲悪もの」に近いものになっている。
ただ、素材は王道でも、料理の仕方が異端なのがこの映画。ジョン・デヴィッド・ワシントン演じる主人公(名もなき男)は、任務に取り組む中で「逆行」という見たことも聞いたこともない現象に遭遇し、混乱していく。それは観客においても同様だろう。途中からは「順行」と「逆行」が入り乱れ、順行する車と逆行する車のカーチェイスなど、言葉だけでは何を言っているのか理解できないシーンが連続。このアプローチは、ノーラン監督作品の中でも最も野心作といえるかもしれない。
同時に、制作費が2億ドルを超える超ビッグ・バジェットの作品ながら、これほどの“難解さ”をはらんだ内容にした部分には、畏敬の念を覚える。本作の公開に際してノーラン監督に取材する機会を得たが、「観客の理解力への信頼」について尋ねたものだ。もちろんノーラン監督はこれまでにも観客の脳を刺激する斬新な作品を送り出してきたが、身構えて臨んだコアなファンにとっても、『TENET テネット』は想像以上のぶっ飛ばし具合だったはずだ。「007」への偏愛、そして「逆行」という奇抜過ぎるアイデア――。
私見ではあるが、本作は映画作家ノーランにおける、欲望が満ち満ちた極私的なプライベート・フィルム的な意味合いが強い。つまり、ノーラン監督個人の“色”が最も強く出た作品であるということ。だからこそ、本作を経た次の監督作品で何を描くのか、強い興味を感じている。
ただ、本作が“我”が強い作品であったとしても、彼の作品に通貫する「時間」という主題からは外れていない。ここからは、簡単にノーランの監督作品の「縦軸」を見ていこう。まずは初長編監督作『フォロウィング』(’98)。作家志望の青年が「尾行」のインモラルな魅力に取りつかれていく作品だが、ここでもう既に「時系列シャッフル」の演出が登場する。
2作目の『メメント』(’00)は、時系列が「逆再生」される作りが大いに話題を集めた。「記憶が10分しかもたない」という主人公の設定も、「時間」に対するノーラン監督の興味を感じさせる。『TENET テネット』は、本作の発展形ともいえるだろう。3作目の『インソムニア』('02)は、ジョージ・クルーニーとスティーヴン・ソダーバーグによってピックアップされた“雇われ監督”的な参加だが、「白夜によって時間の概念が消失する(体内時計が狂う)」姿を描いており、立派なノーラン監督作品といって差し支えない。
『バットマン ビギンズ』(’05)、『ダークナイト』(’08)、『ダークナイト ライジング』(’12)のダークナイト・トリロジーにおいても、すべてタイム・リミット・サスペンスの構造が敷かれており、「時間」のこだわりはブレていない。時限爆弾や、迫りくる列車の衝突、人質が同タイミングで爆破される等々、時間の残酷さが常にバットマンを責め立てるのだ。
『プレステージ(2006)』は、奇術師たちが対決を繰り広げる歴史サスペンスだが、ラストの“オチ”に、時間に対する「こう来たか」な解答が示される。これも、通常の時間の概念では説明のつかないトリックで観客を翻弄し、種明かしであぜんとさせるという意味で、「時間」と向き合っている。
『インセプション』(’10)においては、「人の夢の中に入り込み、アイデアを盗み出す」という設定が観客を熱狂させたが、ここでは「時間」の概念が「現実へ戻る鍵」として描かれる。夢の中では「時間」はあってないようなもので、いわば停止状態。その中に居過ぎて現実と夢の判断がつかなくなると、人格が崩壊する。そこで登場する「コマ」は、「時間」の象徴だ。時間が順行であれば、コマが回り続けることはあり得ない。そうした意味で、時間は“救い”の象徴としても機能している。
『インターステラー』(’14)においては、宇宙と地球における「時間のズレ」が、ドラマ部分の奥深さへとつながっていく。家族を地球に残し、人類を救う旅に出た主人公は、どんどん成長していく子どもたちを観て号泣。宇宙にいる自分は時間の経過において彼らと重ならず、見た目が変わらないまま子どもたちが老いていく姿を目の当たりにしていくのだ。ここでは、順行の時間の流れで、スピードの違いを活写していた。
『TENET テネット』に至る直近の監督作『ダンケルク』(’17)は、『インターステラー』で描いた「複数の時間の流れ」を戦争映画というフォーマットに持ち込み、陸・海・空の3つのシチュエーションにおけるそれぞれ異なる時間を同時展開させた。「陸」は1週間、「海」は1日、「空」は1時間といった具合に。実にトリッキーな、他に類を見ない作品といえるだろう。
また、ノーラン監督は多くの作品において、群像劇を描かない。『インソムニア』は3人、『プレステージ』は2人、『インセプション』もポスター等では6人だが、削ぎ落としていけば軸となるのは3人ほどに落ち着く。『インターステラー』もしかりで、特に『インセプション』や『インターステラー』はここまでスケールが大きいマキシマムな出来事を描きながらも、登場人物がミニマムであるところに特徴がある。『TENET テネット』においても、第3次世界大戦を防ぐ話でありながら、登場人物は異様に少ない。
さらに、キリアン・マーフィやマケル・ケインら、お気に入りの俳優を複数作品にわたって起用することもあって、観客の意識としてスケール・ダウンしてしまう危険性もあるのだが、それでいて小さくまとまっていないところに、ノーラン監督の手腕が感じられることだろう。「時間」と同じく、ここも初期作品から一貫しているところに、彼のブレなさが現れている。
作品を発表するごとに観客を驚かせる“発明家”でありながら、自身のスタイルやモチーフを崩さない“職人”気質の一面も併せ持つ(CGを極力使わないフィルム主義的な部分もまさにそう)。クリストファー・ノーラン監督は、「順行」というリアリストと、「逆行」というロマンチストが同居した、二面性を持つクリエイターなのだ。
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