実在のジャーナリストを描いた1本の映画から、「現場に行くこと」を考える

 SDGs(Sustainable Development Goals)とは、2015年9月の国連サミットにて全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す17の国際目標。地球上の「誰一人取り残さない(Leave No One Behind)」ことを誓っています。
フィクションであれ、ノンフィクションであれ、映画が持つ多様なテーマの中には、SDGsが掲げる目標と密接に関係するものも少なくありません。たとえ娯楽作品であっても、視点を少し変えてみるだけで、われわれは映画からさらに多くのことを学ぶことができるはず。
フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによる「観て、学ぶ。映画の中にあるSDGs」。映画をきっかけにSDGsを紹介していき、新たな映画体験を提案するエッセイです。

文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda

 今回取り上げるのは、1930年代、スターリン独裁政権下の旧ソ連を舞台にした『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(’19)。

 実在のジャーナリストの姿を描きながら、体制が覆い隠してきた人々の窮状をあぶり出していくこの映画から、SDGsの「目標2:飢餓をゼロに」「目標16:平和と公正をすべての人に」を実現するために必要なジャーナリズムの役割を考えます。

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(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)

権力が隠そうとする「不都合」の核心に迫るためには現場を見る必要がある

 2021年2月のクーデター以来、ミャンマーでは軍による凄惨な暴力が続いている。丸腰の市民に対して容赦なく武器を向け、見境なく殺りくを繰り返していく様子は、10年前から戦争が続くシリアの現状と重なって見えてしまう。そして4月18日夜、ジャーナリストの北角裕樹さんが治安当局に連行された。クーデター以後、市民や地元ジャーナリストの拘束は絶えず続いてきたが、その手は海外メディアにも及んでいる。日本のジャーナリストを拘束したところで、日本政府は強く出てこないだろう、と軍は考えているのだろうか。

 この事件に限らず、ジャーナリストが現場で事件や事故に巻き込まれるたびに、日本で沸き上がるのが「自己責任論」だ。とりわけ今の日本の中では、「自己責任」という言葉が「自業自得」と同義で使われがちではないだろうか。2018年10月に、シリアで拘束されていた安田純平さんが解放された際も、「なぜ現場に出向いたんだ」「危険だと分かっていて取材するからだ」というバッシングがネット上にあふれ、根拠のないデマも拡散し続けた。こうしたネット上の書き込みが過熱していく中で、肝心の「シリアで何が起きているのか」は置き去りにされがちだ。

 悪意ある中傷のみならず、こうした事件が起きるたび、「海外メディアやインターネットから情報がふんだんに入ってくる今、なぜわざわざ日本から行く必要があるのか?」という声を耳にすることがある。

 もちろん、シリアなどの情勢を知る上で、海外メディアの取材や現地の人々の発信から、貴重な情報に触れることが多々ある。ただ、そこから借りる映像だけで全てが済むのであれば、取材活動の意味自体が揺らいでしまうはずだ。日本と現地でどんな情報や感覚の開きがあるのか、その肌感覚ごと持ち帰ることで初めて、遠い地との距離が縮まるのではないだろうか。

 もう一つ、大切なことがある。ミャンマーでジャーナリストたちの拘束が相次いでいるのは、彼らの存在が軍にとって「不都合」だからだ。つまり、権力は必ず、不都合を隠そうとする。その「不都合」の核心に迫るためには、監視の目をかいくぐり、現場を見る必要がある。「なぜ現地に行くのか」という過度なバッシングは結局、権力側を利することになる。

権力と癒着する者がのし上がり、現場へと向かう人間が死へと追いやられる構造は、現代社会でも繰り返されている

 『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』は、実在のジャーナリスト、ガレス・ジョーンズ(ジェームズ・ノートン)の短い生涯の一端を描いたものだ。イギリス首相の元外交顧問だったジョーンズは、駆け出しのジャーナリストとして1933年、ソ連に入国し、取材を試みる。恐慌に世界があえぐ中で、なぜソ連は安定した経済力を誇っているのかを探るためだった。

 監視を振り切って都市部から離れ、ウクライナへと潜入したジョーンズは、見渡す限り雪に覆われた凍てつく大地で、飢えに苦しむ人々の窮状を目の当たりにする。盗むものがないかと目を光らせる幼い少年たち、強制労働に苦しむ疲れ切った男たち、無造作に打ち捨てられる遺体…。色彩を失った灰色の風景の中で、人々もまた表情を忘れたかのように茫然自失で食料を求めさまよう。極寒の地で国家が覆い隠そうとしてきたのは、食料が尽き、肉親の亡骸にまで手を延べるほどの極限状態だった。そんな実情をこっそりとジョーンズに訴え出ようとする女性の口を、当局側はすかさず封じ、ジョーンズを拘束する。

 今回掲げたSDGsの「目標2:飢餓をゼロに」の「飢餓」は、自然発生的なものではない。ウクライナでの大飢饉は「ホロドモール」と呼ばれ、強制移住などにより家畜、農地などを奪われた人々ら数百万人の命が奪われたとされている。こうした負の連鎖を断ち切り、汚職や暴力にあらがう「目標16:平和と公正をすべての人に」を達成するためには、ジャーナリズムが健全に機能することが不可欠だ。

 この映画では、「ピューリッツァー賞受賞」という「権威」をちらつかせながら、派手に豪遊するニューヨーク・タイムズの大物記者、ウォルター・デュランティ(ピーター・サースガード)の姿も描かれている。彼はまるでソ連側の“広報係”のように当局の情報を流し続け、彼らに取り入ることで地位を得てきた。ウクライナの実態が明らかになった後にも、彼のピューリッツァー賞は取り消されていない。彼のみならず、ジョーンズの取材姿勢に対し、駐在していた記者たちは一様に「冷笑」を向け、「安全地帯」から記事を書き続けていた。

 一方、実在のジョーンズは、1935年8月、満州国での取材中に盗賊に誘拐される。彼のガイド役がソ連の秘密警察と内通しており、30歳の誕生日を迎える前日に射殺されてしまう。あまりに短すぎる生涯だった。こうして、権力と癒着する者がのし上がり、リスクをとり現場へと向かう人間が死へと追いやられていく構造は、現代社会でも繰り返されている。その理不尽を食い止めるのは、「現場の声を知りたい」という、世論のはずだ。

安田さんプロフ
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