コロナ禍の今、『ぼけますから、よろしくお願いします。』から考える「支え合う力」 #観て、学ぶ。映画の中にあるSDGs from安田菜津紀
文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda
今回、取り上げるのは認知症の母、介護する高齢の父の姿を娘の視点で撮り続けたドキュメンタリー『ぼけますから、よろしくお願いします。』(‘18)です。
高齢化が進む中、介護、福祉の現場は課題が山積み。この映画を通して「目標3:すべての人に健康と福祉を」「目標11:住み続けられるまちづくりを」について考えていきたいと思います。
(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)
4年前にお会いした訪問看護師さんのように…
4年ほど前、訪問看護師さんたちの現場に同行させてもらい、在宅医療の取材をしていたことがある。医療的ケアが必要なお子さんから、末期がんの方まで、向き合っているものも、家庭環境も多様であることが、特に生活空間である自宅に伺うとよく分かる。高齢者の中には認知症の方もいて、ついうたた寝をしてしまうと、今が早朝なのか夕方なのか分からなくなってしまい、「ごめんなさい、今、どっちなのかしら…」と心細そうに看護師さんに電話をしてくることもあった。
とある高齢女性のお家にお邪魔した時のことだ。木造のどっしりした構えの二階建て一軒家に、その方はお一人で住まわれていた。足腰が悪く、寝起きや食事など、生活は一階のみとなっているようだった。小柄でかわいらしい笑顔のその女性は、けれども、どこか常に不安げに見えた。
「ところで…」。看護師さんたちのケアの最中、彼女はふと、顔を上げてこう尋ねた。「二階にね、赤ちゃんがいるはずなのよ。見てきてくれないかしら…?」。もちろん、この家に赤ちゃんはいない。その女性も、自分が色々なものを忘れてしまっている、ということをどこかで分かっていたのかもしれない。「赤ちゃん、いるわよね…?」と自信なさげに再度尋ねた。
すると看護師さんは、「あ、そうなんですね。では見てきます!」と颯爽と二階に上がり、降りてくると「問題なかったですよ」とごく自然にまたケアに戻った。「あら、そうだったの。ありがとねぇ、良かったわぁ」とその女性は、心からほっとした表情だった。それは「赤ちゃん」が無事であることに安堵したというよりも、「自分はおかしなことは言っていない」という、自分自身に安心した表情だったのだと思う。
なぜ「赤ちゃんなんていませんよ」と否定せず、すっと対応できたのかと看護師さんに尋ねると、「認知症の方は、具体的な記憶が曖昧になってしまったとしても、“楽しい”“嬉しい”という感情は残るんですよ。プラスの気持ちだけでなく、“悲しい”“恐い”“不安”も。だから少しでも、そういうネガティブな感情を感じる機会は減らしたいな、と思って」と、ケアで大切にしていることを教えてくれた。
よし、私ももし自分の家族が認知症になった時、こんな風にナチュラルに対応してみよう、と思ったものだった。ところが、だ。最近、祖父に認知症の症状が見受けられるようになり、がんの手術とも時期が重なってしまった。新型コロナウイルスの影響で、以前のように入院中の面会もかなわない。
元来、祖父は腕っぷしが強く、小さい頃から力仕事といえば祖父、と頼りにしていた。どちらかというと神経質で、少しでも部屋が散らかっていると、ぶつぶつ言いながらさっと片づけてしまっていた祖父が、身の回りの整理もできない、筋肉が落ちて痩せていく、時折、孫の顔もよく分からない、という姿を見ると、やはり動揺してしまう。一緒に暮らしているわけでもない私が動揺するのだから、日々生活を共にしている祖母はなおさらだろう。母や私に対する祖母からの電話も増えていった。あの日の看護師さんのように自然と対応することが、決してすぐにできることではないのだと痛感する。
『ぼけますから、よろしくお願いします。』を自分のこととして
『ぼけますから、よろしくお願いします。』は、TVディレクターとして活躍する信友直子さんが家族にカメラを向けたドキュメンタリーだ。戦争を経験し、「自分にはできなかったことを思い切りやってほしい」と背中を押し続けてくれた大正9年生まれの父、社交的でユーモアたっぷりな昭和4年生まれの母。直子さんはそんな2人を東京から通いながら撮影し続けていた。
やがて母の認知症が進み、95歳の父が買い物や掃除など、家事をこなすようになる。介護保険を使って外部の人に頼るのか、それは人に迷惑をかけることにはならないのか、家族の間の葛藤も垣間見える。何より、できていたはずのことができなくなっていく、自分が“おかしい”のでは、という母の自身に対する止めどない苛立ちが胸に迫った。家族として向き合うことは大切である一方で、家族だけでは背負えないこともあるはずだ。
今回、「目標3:すべての人に健康と福祉を」を選んだのは、日本でも福祉を必要とする人々へのケアがまだ十分とはいえないことに加え、支える福祉、医療関係者へのサポートも足りていないと感じているからだ。この映画でそこまで切り込んでいるわけではないものの、待遇が改善されず、離職してしまう福祉、医療関係者たちの問題は、長年指摘され続けてきた。介護の現場に余裕がなければ、利用する人たちの「迷惑をかけるのでは」という後ろめたさもぬぐえないはずだ。
また、「目標11:住み続けられるまちづくりを」を選んだのは、この中に、「2030 年までに、脆弱な立場にある人々、女性、子ども、障害者、および高齢者のニーズに特に配慮し、公共交通機関の拡大などを通じた交通の安全性改善により、すべての人々に、安全かつ安価で容易に利用できる、持続可能な輸送システムへのアクセスを提供する。」という目標が掲げられているためだ。自尊心を保つ意味でも、自分自身の足でどこかに行ける、ということも大切な支えとなる。この映画の舞台となった地域と違い、歩いて買い物に行けない場所で、誰も取り残されないための街づくりができるのかも問われている。
私が取材でお世話になった訪問看護ステーションの看護師さんは、今でも現場で活動を続けている。新型コロナウイルスの感染拡大に関して、真偽の定かではない様々な情報が飛び交い不安を感じていた利用者さんも、「いつも会っているあなたが言うなら」と、落ち着いて必要な対策に向き合ってもらえるのだという。
一方で、以前のようなデイサービスの利用が困難となり、認知症の方々への影響も懸念される。そして現実的な話をすれば、利用者さんがいなくなれば、そこに携わる仕事をしている人々の生活も立ち行かなくなる。ケアを必要としている方々を支えるために、現場で働く人々の安心安全を守ろう、と私たちが声を届けていくことが必要なのではないだろうか。