『ドライブ・マイ・カー』は観る者の中で「成長していく」豊かな作品だ
文=SYO @SyoCinema
第74回カンヌ国際映画祭で脚本賞、国際映画批評家連盟賞、エキュメニカル審査員賞、AFCAE賞の4冠に輝き、第94回アカデミー賞では作品賞を含めた4部門にノミネートされ、国際長編映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』が、7月23日(土)にWOWOWで初放送を迎える。これを記念して、濱口竜介監督特集や西島秀俊出演特集の放送も決定。日本映画の歴史を変えた本作に至るまでの両者の軌跡を楽しんでいただきたい。
『ドライブ・マイ・カー』がどういう話で、どういった魅力があるのかについては、今さら語るべくもないかもしれない。あらゆるメディアで取り上げられ、SNSやレビューサイトで映画ファンがそれぞれの感想や考察を綴ってきた。村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」をリミックス的に再構築し、そこにアントン・チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」やサミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」の要素を交ぜ込んだ本作は、決して単純明快な物語ではない。約3時間という長尺かつアートハウス的な映画が、日本国内の興行収入10億円を突破し、多くの人々に鑑賞されたということ。その事実が、映画という文化芸術の豊かさを改めて証明したように感じる。
そう、僕が『ドライブ・マイ・カー』を初めて観た時に感じたのは、この“豊かさ”だった。今回は、その部分を中心に、作品との私的な“旅”を綴っていきたい。
2021年、縁あって『ドライブ・マイ・カー』の試写会に赴くことになった。試写室は満席で、作品の注目度が十二分に伝わってきた。ちょっと寄り道するが、「マスコミ試写」は独特の空間で、僕の個人的な感覚を言うといつもどこか気後れしてしまう。仕事の延長線上ということもあろうが、映画館に一お客さんとして行く時とは雰囲気が全く違うのだ。
その要因は何か。端的に言えば、作品との関係性やモチベーションが人によってバラバラなのだ。メディアの人間、作品の関係者、招待を受けたインフルエンサー、広義の業界人等々…なんだかすごく、濃くて雑多。自分にとってはなかなかリラックスできる場ではない。
だが、『ドライブ・マイ・カー』においては試写会の雰囲気が凜と澄み切っているというか、一つの色に統一されているように感じた。感覚としては、上映初日の映画観客席に漂う心地良い緊張感に近い。業界の注目度の高さはもちろんだが、純粋なる「この映画を観たい」という意志のようなものがそこにはあった。その熱は上映中も途切れることなく、非常に居心地が良かったことを覚えている。作品の素晴らしさは言うまでもないが、参加者からも「この映画は来る」という予感めいたものを感じたのだ。
つまり、上映前と上映中、そして上映後にも観る者を虜にする“魔力”を体感したということ。それもまた本作が持つ映画の豊かさであろう。それとは別に、あるいは連係して――僕自身の心に訪れたファーストインプレッションは、「芸術」と「対話」だった。
主人公の家福悠介(西島秀俊)は、俳優であり演出家。広島の演劇祭に招かれ、現地に滞在しながら新作舞台の制作を行なうこととなる。そこで出会ったドライバーの渡利みさき(三浦透子)や、出演者の高槻耕史(岡田将生)との交流を通し、家福の亡くなった妻、音(霧島れいか)への想いが少しずつ浮上してくる――というのがざっくりとしたあらすじだ。
こういった構造のため、演劇のシーンが密に描かれていくわけだが、家福が行なう「多言語が行き交う会話劇」はかなりアカデミックな出し物と言っていい。にもかかわらず、客席には多くの人々が詰めかけている。さらには新作舞台の制作をバックアップしてくれる存在がいて、出たいと思う役者がいて……。しかもそれらの部分について、劇中では一切の言及がない。当たり前のように配置されているのだ。多少なりとも演劇をかじっていて、広義の芸術業界に身を置く自分としては、『ドライブ・マイ・カー』の世界が理想郷に映ってしまった。おそらく、いや確実に現代日本は、ここまで文化芸術に手厚い環境ではない。現実よりもはるかに“豊か”だ。
そして、その土壌の上で展開されるのは、対話。『ドライブ・マイ・カー』では、家福と音、みさきとみさきの母といったような生者と死者、健常者とろうあ者、日本人と外国人、日本人同士といったさまざまなタイプの人々の“対話”が描かれる。正確に言えば、「対話のできなさ」だ。生者と死者は物理的に直接コミュニケーションを取ることが難しく、生きている者同士でも相手の言語を知らなければそこにはラグや壁が生まれる。さらには、同じ言語を有している者であっても、分かり合えなかったり相容れなかったりするものはある。つまり、人は完全にお互いを知り、つながることは難しいのだ。
『ドライブ・マイ・カー』はその“真実”を、複数のレイヤーを同時に展開させながら描き出し、ただその上で「歩み寄ろうとする」人々の姿を見つめていく。家福とみさきはそれぞれに抱える“痛み”と“悼み”を分かち合い、他者との適切な距離の測り方が分からない高槻もまた、自分自身の性に一つの決着をつけようとする。
コロナ禍に入って「不寛容の時代」という言葉がますます叫ばれるようになった。人が人と対面する機会が減った中でネットにはおよそ人が考えたとは思いたくない誹謗中傷の言葉があふれ、自己アイデンティティを喪失する人が増え、他者との関わりに恐怖を感じるようになった人も少なくないだろう。そんな状況下で、分かり合えなさの前にたたずむことなく、それでも一歩、二歩と進んでいこうとする人々を描いた『ドライブ・マイ・カー』は、「人間は豊かである」と再認識させてくれるようだった。
「芸術」と「対話」。どちらも人間を人間たらしめるものであり、その二つが健全に回っている世界には、希望がある。僕自身が感銘を受けた理由の大部分を言語化するなら、そういったものになるだろう。そして――『ドライブ・マイ・カー』の大きな魅力は、その感銘が色あせるどころかどんどん成長していったこと。
鑑賞後、劇場パンフレット用のメインキャストのインタビューを担当させていただけることになり、メディア用のインタビューも含めて、キャスト陣に何回か話を聞く機会に恵まれた。その他にもコラムやレビューなど、この作品と向き合う機会は多く、さまざまな情報が補完され、思考や感情が整理された部分はあるものの、根源的な感動はむしろ大きくなっている。本作は、観る者の中で成長していく映画だったのだ。その先にアカデミー賞の快挙があり、ヒットがあり、熱が伝播していくさまを目にして――。それは、乾いた大地に少しずつ緑が増えていくような、豊かさを取り戻す時間でもあった。『ドライブ・マイ・カー』という作品を想うとき、私たちはきっと、人間の尊厳に立ち返る。
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