英国史上最悪のスパイ事件に関わった実在の男を描く。『亡国のスパイ~かくも親密な裏切り~』
テキスト:牛津厚信 編集:川浦慧
第二次世界大戦から冷戦期にかけて、英国史上最悪のスパイ事件に関わった男たち
あなたがもし、キム・フィルビー、ガイ・バージェス、アントニー・ブラント、ドナルド・マクレイン、ジョン・ケアンクロスといった人名に聞き覚えがあるとしたら、かなりの「リアル・スパイ通」と言えるだろう。
この5人は、第二次世界大戦から冷戦期にかけて英国史上最悪のスパイ事件に関わった男たちである。「ケンブリッジ・ファイブ」とも呼ばれる彼らは、1930年代、英国の名門ケンブリッジ大学在学中に共産主義への憧れを抱き、ソ連側からの接触を受けてスパイとなることを決意。卒業後は個々がエリートとして英国政府の中枢へと深く入り込み、入手したトップシークレットをソ連側に流し続けた。
周囲の者たちはこの正体に一切気付かず、1950年代になってバージェスとマクレインがソ連へ亡命したのを機に事態が明るみとなり、それから約10年後、今度はMI6で対情報工作部門の責任者を務めたフィルビーまでもがスパイであることが発覚し、彼もまた亡命を果たした。
親友が二重スパイだと発覚。国家への深刻な裏切りに、諜報員として、友として、どう対処するか?
『亡国のスパイ〜かくも親密な裏切り〜』は、このケンブリッジ・ファイブの一人でもあるキム・フィルビーに焦点をあてたドラマシリーズである。
原作は、スパイに関するいくつもの著書を持つベン・マッキンタイアー。新資料などを駆使して歴史に埋もれた真実をありありと掘り起こす筆致で知られ、映画『オペレーション・ミンスミート ナチを欺いた死体』(2022年)や、テレビシリーズ『SAS: Rogue Heroes』(2022年)など、著書が次々と映像化されていることでお馴染みだ。
そんな気鋭作家の原作をベースにしているがゆえに、本作はこれまで触れられなかった新たな領域に光を射し込ませている。とりわけ特徴的なのは、フィルビーのみならず、彼と同じく支配階級に生まれ、ケンブリッジ大学で学び、MI6配属後はずっと親友であり続けたニコラス・エリオットという男をもう一つの軸に据えている点だ。つまりフィルビーにもっとも身近なところで裏切られ続けた人物というわけである。
物語の始まりは1963年。フローラ・ソロモンという女性の新証言により、長らくスパイ疑惑をかけられていた元MI6局員キム・フィルビーが限りなく黒であることが判明する。
現在はベイルートに滞在するフィルビーにどう接触して容疑を認めさせるか。そして、いかにして彼の知る重要情報を供述させるか。ここで「私にしかできない仕事だ」と手を挙げたのがニコラス・エリオットだ。
すぐさまベイルートへ飛び、4日間にわたって手強いフィルビーと対峙し続けるエリオット。そして最後の晩にディナーを囲んだのち、フィルビーの消息は途絶えた。船に乗り込み、そそくさとモスクワへと発ったのである。
となると、みすみす取り逃したエリオットに批判が集中するのは当然だ。「まさかキムが逃げるとは思わなかった」と彼は言う。だが、本当にそうだろうか? 並外れた知性を持つエリオットのことだから、何らかの取引きを持ちかけ、フィルビーが持つ機密情報を引き出したうえで、逃亡に目を瞑ったのではないかーー。
エリオットしか知らない「事の真相」をめぐって、いつしかMI6やMI5はもちろん、アメリカのCIAまでもが聞き耳を立てているという二重、いや三重構造が生まれる。さらに物語は時系列には進まず、エリオットとフィルビーが親交を温めた日々のフラッシュバックや、はたまた亡命後のフィルビーの生活さえもが散りばめられ、ミステリアスなパズルを織りなしていく。
どうだろう? もうすでに頭が痛くなってきただろうか。これはつねに気を張っておかないと、何が真実で何が嘘なのか、そのおぼろげな境目を見失いかねない。静寂のなかで目に見えない銃弾が飛び交うかのような、まさに頭脳戦ともいうべきドラマシリーズなのだ。
支配階級のエリート意識、閉鎖的な交友関係がもたらした歪な友情
「ベイルートで何が語られたか?」という要素をマクガフィン的に追うのも重要だが、それ以上に本作が丹念に紡ぐのは、エリオットとフィルビーの特殊すぎる関係性である。
これは戦前の上流階級に生まれ、エリートコースを歩んだ二人だからこその友情と言うべきか。幼い頃から特権意識を叩き込まれ、同じ大学での日々を送り、戦中はファシズム打倒を目指して諜報戦を繰り広げ、そして選ばれたメンバーだけが集える社交クラブで閉鎖的な絆はますます深まり……こうして、二人の間にはちょっとやそっとでは揺るがない信頼関係が築かれていった。
実際、フィルビーには長らく嫌疑がかけられていたにもかかわらず、エリオットはずっと彼を信じて擁護し続けてきたし、何よりも当時、上流階級出身者ばかりで占められていたMI6そのものが、頑なにフィルビーを守ろうとした(対するMI5は中産階級、労働者階級出身者で占められていた)。だからこそ1963年になって、ついに動かぬ証拠が突きつけられた際のMI6側のダメージは計り知れないものがあったわけだ。
そして彼らエリートのもう一つの特徴として「感情を決して表には出さない」というものがある。彼らにとって感情と思考や行動は切り離すべきもの。それゆえつねに冷静を装い、感情を見透かされないようジョークで戯けてみたり、まったく別の言葉で相手を惑わせたり、はたまたその言葉が暗に別の意味を指し示していることだってある。
つまるところ彼らの脳内では、良くも悪くも、チェスのように絶えず思考が続いているのだ。たとえ絶望的な状況であったとしても、どこか優雅なゲームを嗜むように振る舞う姿がとても奇妙で悲しくもあり、逆に言うとそういうふうにしか生きられない習性にまた、我々は不思議なほど惹きつけられもする。
そういったエリオットとフィルビーの特殊な関係性を含めて『亡国のスパイ』というドラマは実に手強いながらも、人間の繊細さと脆さを併せて描き尽くす。一度目はストーリーの流れを追いつつ、二度目は表層では読み取れない心の動きやディテールにまで思いを巡らせ、じっくりと味わいたくなる作品なのだ。
渦中の人物となるキム・フィルビー役には、『L.A.コンフィデンシャル』(1997年)で脚光を浴びて以降、一癖ある正義漢から悪役まで何でもこなすカメレオン俳優、ガイ・ピアース。誰しもを瞬時に魅了するフィルビーの二面性を実に巧みに体現していて、その一挙手一投足から目が離せない。
対するニコラス・エリオット役にはダミアン・ルイス。大ヒットしたドラマ『HOMELAND』の海兵隊員役で有名だが、実は『亡国のスパイ』の製作と脚本を担うアレクサンダー・ケアリーとの出会いも元々は『HOMELAND』がきっかけだった。当時から続く二人の信頼関係が今回の新たなドラマ開発につながったと言っていい。
そしてこの二人に劣らず存在感を放つのが、MI5の保安部員としてエリオットを聴取するリリー・トーマス役のアンナ・マックスウェル・マーティンだ。
彼女が演じるリリー・トーマスは労働者階級の出身で、化粧はせず、言葉には北部のアクセントが漂う。しかし、組織や階級やイデオロギーによる色眼鏡がはびこるなかで、彼女だけは中立的でひたすら真実を見極めようとする。我々が唯一共感しうる、知的で市民感覚に満ちたこのキャラクターが、謎めいた物語をますます芳醇なものへ引き立てている。
これまでに数多く作品化されてきた、ケンブリッジ・ファイブ
ケンブリッジ・ファイブの面々はこれまでにもいくつもの作品で取り上げられてきた。例えば1980年代にヒットした『アナザー・カントリー』の主人公はガイ・バージェスがモデルとなっているし、『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』(2014年)には暗号解読の要となったブレッチリー・パーク内で暗躍するジョン・ケアンクロスが登場する。
そしてこれらと切っても切り離せないのが、映画『裏切りのサーカス』および、その原作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』だ。
本作の序文を紐解くと、そこにはこの小説がキム・フィルビーのスパイ事件を題材にしている旨が明示してある。
もう一つ興味深いことに、著者のジョン・ル・カレはフィルビーと面識こそなかったものの、なんらかの嫌悪を抱いていたらしいことが書かれてあり、その理由についてこう続けている。
「フィルビーをきらったのは、彼がわたしとあまりに多くを共有するからだった。パブリック・スクール教育を受け、身勝手で専横的な父親の息子であり、人をやすやすと自分に引きつけ、感情を、わけてもイギリス支配階級の頑迷と偏見への激しい嫌厭を隠すのに長けていた。そうした性格はすべて、時につけ折にふれ、わたし自身にあったのではないかと思う」
もしかするとル・カレは、どこか自分の分身のようでいて、しかし何か決定的な隔たりのあるこのフィルビーとは何者だったのかを探るような思いで『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』を執筆したのかもしれない。
ちなみに『亡国のスパイ』の原作書『キム・フィルビー』には、ル・カレが「あとがき」を寄せており、MI6内で面識のあったニコラス・エリオットの印象や、彼から直接聞いた「ベイルートの一件」をはじめとする裏話の数々についても触れられている。
もし『亡国のスパイ』や『裏切りのサーカス』をもっと深掘りしたい方は、ぜひこれらの書籍もじっくり味わってみられることをおすすめする。きっと物語からは窺い知れない時代背景と、男たちの愛憎入り混じった複雑な心情が浮かび上がってくるはずだ。
※この記事は株式会社cinraが運営するウェブサイトCINRAより全文転載となります。
※CINRA元記事URL:https://www.cinra.net/article/202307-aspyamongfriends_kawrkclsp
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