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杉咲花の“ギアチェンジ”の始まりともいえる映画『市子』。その役を生きる彼女の“生活芝居”を紐解く

映画ライターSYOさんによる連載「 #やさしい映画論 」。SYOさんならではの「優しい」目線で誰が読んでも心地よい「易しい」コラム。今回は戸田彬弘監督が主宰する劇団の旗揚げ作品「川辺市子のために」を戸田自身が映画化した『市子』('23)で、第47回日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞した杉咲花の演技力を丁寧に紐解きます。

文=SYO @SyoCinema

 人生を生きていく中で影響を受けた人――保護者や友人、画面の向こうにいる有名人などそれぞれに異なるだろうが、こう聞いたときにパッと思いつく人たちがいるのではないか。
 ただきっとその該当者に会える機会は、歳を重ねるごとに減っていくもの。「自分」というアイデンティティが確立されてゆくこともあるだろうし、影響を受けるまでに他者を信用することも、自分を変化させることも怖い/リスキーだからだ。

 僕も同様で、いつも一歩引いた安全地帯に身を置きながら他者と接している。ただ、この人の場合はそうはいかない。自分が近年最も影響を受けた人といっても過言ではない存在・杉咲花だ。今回は『市子』のWOWOW初放送を記念し、彼女の画面内の魅力はもちろんのこと――自分が垣間見た本人の生きざまについても少しだけ紹介したい。

 杉咲花といえば、余命宣告を受けた主人公(宮沢りえ)の娘に扮した『湯を沸かすほどの熱い愛』('16)でその演技力――情感豊かな“泣きの芝居”に魅せられた方は多いだろう。自分にとっても、彼女に初めてインタビューさせていただいた思い出の映画ということもあり、鮮明に脳裏に焼き付いている(当時の自分はまだ会社員生活4年目の編集者だった)。

 そこから『無限の住人』('17)、『十二人の死にたい子どもたち』('19)、『楽園』('19)、『青くて痛くて脆い』('20)、そしてドラマ「花のち晴れ〜花男 Next Season〜」、「おちょやん」、WOWOWオリジナルである「杉咲花の撮休」と数々の作品を重ねてきたわけだが――『市子』は物語の内容的にもその圧巻のパフォーマンスから見ても、彼女のキャリアにおいてターニングポイントとなる一作ではないか。

 『市子』は、恋人の長谷川(若葉竜也)からプロポーズされた直後に姿を消した女性・市子(杉咲花)の消息を追う形で、彼女のあまりにも壮絶な過去が明かされていくヒューマンミステリー。
 冒頭、TVで「白骨死体が山中から発見された」というニュースを見た市子が団地のベランダから逃げ出すシーン、続く長谷川との食事、プロポーズされる過去のシーン――映画が始まって8分ほどで、杉咲が恐るべきクオリティーで繰り出す“生活芝居”にのみ込まれることだろう。

 人にはそれぞれ懐事情に関連した生活水準があって、それらは目やまとう空気、服装や言動に否応なしに出てしまうもの。生活や気持ちに余裕がある人とそうではない人は「見れば分かる」はずだ。
 ただ厄介なのは、見た目をいくら沿わせても、生活感の漂う空間に置いたとしても、そこに生きる人物に扮した演者自身が“軸”を合わせなければ「そうは見えない」ということ。

 人気俳優ともなれば本人が意識する/しないにかかわらず華やかさが出てきてしまい、「演技で頑張ってる感」が邪魔をして、役が「生きてこない」ということもあるだろう。ある意味、演技の限界ともいえるのだが――『市子』の杉咲においては、まだ観客が知らない市子の人生が、その瞳や体に刻まれている。

 杉咲の初期からの武器である“泣きの芝居”も確認できるが、「泣くタイミングが完璧」などではなく、市子という人が涙をこぼした瞬間を私たちがたまたま目撃してしまったようなドキュメント感にまで昇華されているのだ。どうしてこんなレベルの演技が出せるのか、そのアプローチやプロセスを想像する余地もないほど、ただそこに“在る”。
 杉咲花という体を通してはいるが、市子という人物がそこに生きている。言葉で説明すると矛盾しているのだが、脳がそう認識した以上信じるほかない。

 個人的にドラマ「アンメット ある脳外科医の日記」での杉咲の演技はいち観客である自分が望む“究極の正解”――お手本というよりも到達点であり、「演技とは何か」の定義が書き換わるほどだったが、ギアチェンジというのか覚醒というのか――“それ”は『市子』から始まったように思う。

 撮影時期の前後はあれど、ここ1年ほどで世に出された『市子』、『52ヘルツのクジラたち』('24)、『朽ちないサクラ』('24)、「アンメット~」をひとつのフェーズと捉えるなら、明らかに杉咲花の演技は変わった。穏やかな安らぎだけでない、見る者を引き込む“重さ”が一層加わったのだ。

 そもそも映画やドラマというものは、つまり物語というのは「誰かの人生を観て、楽しむ」意味である種の暴力性をはらんでいる。杉咲はそのことを誰より理解し、向き合おうと努めているように思えてならない。だからこそ彼女の演技には重みが宿り、われわれはそれを目撃して彼女が体験する人物の人生の一端に触れ、打ちのめされたり“食らって”しまったりする。だが、それが普通であり真実だ、とも感じる。
 例えば実生活で市子に出会ったとして、その話を聞いたらわれわれの身に、心にどんな反応が生まれるだろう。映画だから、安全だから、無関係だから搾取していいのだ――という傲慢を彼女は一表現者として、許さない。 それが演技にも明確に表れているように、自分には映る。

 『市子』を機に『52ヘルツのクジラたち』『朽ちないサクラ』と彼女のインタビュアーを務めさせていただき、その過程で作品をどう届けるのか関係者と対話を続け、身を粉にして試行錯誤を繰り返す姿の一部を見つめてきた。「出て終わり」ではなく、作品を作る者としての業と責任をどこまでも負おうとする覚悟――。その荷を少しでも分けてもらえるなら、自分にできるすべてで応えたいと思った。
 『市子』から、書き手としての僕の意識も明確に変わったのだ。

 何かを教えられたわけではない。ただ、僕が勝手に感化されただけだ。だからこそ、自分という人間の信条として――あの日から、どの作品に入るときも持ち続けている。俳優・杉咲花への感謝とともに。

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クレジット:©2023 映画「市子」製作委員会

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