経済成長だけが進むべき道なのか――「現代のノマド」から考える

 SDGs(Sustainable Development Goals)とは、2015年9月の国連サミットにて全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す17の国際目標。地球上の「誰一人取り残さない(Leave No One Behind)」ことを誓っています。
 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、映画が持つ多様なテーマの中には、SDGsが掲げる目標と密接に関係するものも少なくありません。たとえ娯楽作品であっても、視点を少し変えてみるだけで、われわれは映画からさらに多くのことを学ぶことができるはず。
 フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによる「観て、学ぶ。映画の中にあるSDGs」。映画をきっかけにSDGsを紹介していき、新たな映画体験を提案するエッセイです。

文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda

 今回取り上げるのは、2017年にジェシカ・ブルーダーが発表したノンフィクション『ノマド ――漂流する高齢労働者たち』が原作となった『ノマドランド』('20)。

 第93回アカデミー賞で作品賞、監督賞(クロエ・ジャオ)、主演女優賞(フランシス・マクドーマンド)の最多3部門を受賞。第77回ヴェネチア国際映画祭でも金獅子賞を受賞した。人々が「現代のノマド=遊牧民」になるまでの背景から、SDGsの「目標10:人や国の不平等をなくそう」を考えていきます。

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(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)

仕事の上に休息を乗せる生活から、休息という土台の上に仕事があるような生活へ

 岩手県岩泉町で山に牛たちを放つ山地酪農を実践している、なかほら牧場を訪ねた時のことだった。日中、雪に覆われて真っ白な山肌に、点々と牛たちが歩いていた。しかし夜になると、稜線も見えないほどの漆黒の闇が牧場全体を包み込む。「ここは豪雪地帯だから、毎年本当に多くの雪が降る。過酷な環境のように思えるけれど、実は雪って“大地のふとん”でもあるんだ」。窓の外でしんしんと降り続ける雪を見ながら、牧場長の中洞正さんが話し始めた。

「例えば、雨が降っても、その水のほとんどは表面を流れるだけで地下深くまで染み込まない。ところがね、雪は違うんだ」。

 雪って、表面と、地面に接している側と、どっちから溶けるか知ってる? と中洞さんは目を細めながら問い掛ける。「大地と触れている側から、地熱で少しずつ溶けていくんだよ。太陽の光なんか届かないのに、じわじわと大地に水分を染み渡らせる」。

 木々はすっかり葉を落とし、時には数メートル先も見えないほどの吹雪に見舞われるこの地の冬は、実は生命の存在しない季節ではなく、目に見えないところで、ゆっくりと命を育んでいる季節なのだと、中洞さんはしみじみと語ってくれた。

 この時、私は牧場を、同じくフォトジャーナリストである夫と共に訪れていた。夫がうつで倒れたのは、その数年前のことだった。少しずつ、夫の心を解きほぐしていったのは、時には厳しい顔ものぞかせる、そうした大自然の姿だった。

 ある時、悩んだ末に、義父が知っている精神科を夫と共に訪れたことがある。緑に覆われた林道の奥にある木造の小さな病院で、「セラピードッグ」であるドーベルマンの「あすかちゃん」が出迎えてくれた。あすかちゃんの横の椅子には、ちょっぴりあすかちゃんに顔が似ている、中年くらいの先生が一人座っていた。

「これまで、仕事の上に少しの休息を乗せる生活をしていましたね。今度からは、休息という土台の上に仕事があるような生活にしていってみるのがいいのではと思います」

 その先生は、ゆっくりとそう語ってくれた。中洞牧場での時間は、生産性で人間の価値まで図るようなせわしない社会にのみ込まれそうな時に、自然のリズムをもう一度取り戻すための「休息」としても、欠かせないものになっていった。

自然のリズムから引き剝がされがちな社会の在り方は、本当に誰もが望む社会の姿なのだろうか

 映画『ノマドランド』を見ながら、夫が鬱で動けなくなってからの日々や、大自然の中で過ごした時間を思い返していた。

 主人公であるファーン(フランシス・マクドーマンド)は、街の経済を支えていた企業の破綻によって、長年暮らした住居を失った。亡き夫が生きた証しが刻まれている街を、離れたくはなかった。それでもやむなく、一部の思い出の品だけを詰め、キャンピングカーでの生活を始める。繁忙期の飲食店や巨大テクノロジー企業の倉庫作業、さらには力のいる農作業など、季節労働の現場を渡り歩く「現代のノマド」となった彼女は、訪れる先々で、同じように移動生活を続ける人々との、出会いと別れを重ねていく。

 いつもそれぞれに生きているノマドたちは、時折、砂漠の真ん中に集い、共にたき火や日光浴を楽しむ。人生の終焉しゅうえんが見え始めていたあるノマドは、忘れられない光景だったという、何千羽ものツバメが飛び交う空の下に戻り、その一生を終えた。息をのむような風景は、ファーンの旅の中でも続く。どこまでも続く砂漠の朝は、空に紫とオレンジの鮮やかなグラデーションを描き出す。岩山の織り成す地層は、何千年もかけて風と砂と雨水が交わってきた時を思わせた。自然と共にある時、たった一人でも彼女の顔は晴れやかだった。周囲に人がいるにもかかわらず、街中でぽつんと過ごす彼女の方が、孤独に見えるのはなぜなのだろうか。

 今回の連載で扱う作品として『ノマドランド』を選んでから、SDGsの目標のどの軸で考えることができるのか、実はとても悩んだ。「誰も取り残さない」という目標は、裏を返せば「前に進むこと」をよしとすることでもある。けれども「前に進むことだけが正解なのか」と、私はこの映画から問い掛けられたように思う。ファーンの生き方は、「安定した企業に就職し、家を買い、一か所に留まって生活し、そして死んでいく」こととは対極にある。それまで「経済成長こそ進むべき道」とされていた価値観とは違った生き方を模索することこそ、実はファーンの車の名前通り、「先駆者」なのかもしれない。

 それでもあえて「目標10:人や国の不平等をなくそう」を選んだのは、あらがえない倒産の波の中で、誰かとの思い出が詰まった地から突然引き剝がされる理不尽を「仕方がない」の一言で済ませたくなかったからだ。ファーンが出会ったノマドたちの中には、12歳から必死に働いてきてもわずかな年金しかもらえず、意を決してキャンピングカーでの生活を始めたという人もいる。ある男性は、ベトナム戦争で派兵され、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder=心的外傷後ストレス障害)に苦しんだ末、キャンピングカー生活を始めて、ようやく心が穏やかになったと明かした。

 ともすると自然のリズムから引き剝がされがちな社会の在り方は、本当に誰もが望む社会の姿なのだろうか。もちろん、それぞれの生き方があっていい。けれども、誰もが自分らしく生きていける社会のためには、そもそもの不平等をなくしていかなければならないのではないだろうか。

安田菜津紀さんプロフ211001~
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