子どもが笑えない社会は、豊かな社会とは言えない―― 1本の映画から今、切に思うこと

 SDGs(Sustainable Development Goals)とは、2015年9月の国連サミットにて全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す17の国際目標。地球上の「誰一人取り残さない(Leave No One Behind)」ことを誓っています。
 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、映画が持つ多様なテーマの中には、SDGsが掲げる目標と密接に関係するものも少なくありません。たとえ娯楽作品であっても、視点を少し変えてみるだけで、われわれは映画からさらに多くのことを学ぶことができるはず。
 フォトジャーナリストの安田菜津紀さんによる連載「観て、学ぶ。映画の中にあるSDGs」。映画をきっかけにSDGsを紹介していき、新たな映画体験を提案するエッセイです。

文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda

 今回取り上げるのは、韓国映画『幼い依頼人』('19)です。

 壮絶な虐待と、子どもたちを守る術の乏しさを、この映画は鋭く突き付けます。日本でも虐待死の事件が起きる度に、「なぜ防げなかったのか、何が足りなかったのか」と議論がなされます。「目標16:平和と公正をすべての人に」「目標5:ジェンダー平等を実現しよう」とともに、子どもたちを守るために求められていることを考えます。

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(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)

震える指先で110番を押したあの時、本当はどうすれば良かったのか

 大学生の時だったと思う。私は夜道をたどり、自宅へと向かっていた。細道に差し掛かった時に突然、傍らの古びたアパートの2階から皿の割れるような鋭い音と、何を叫んでいるのか聞き取れないほどの勢いでまくしたてる、男性の怒号がとどろいた。まるで目の前で聞いているかのような声量で。外を歩く私の体も凍り付く。一瞬の沈黙の後、今度は男性が低く、迫るような声で語るのが聞こえてきた。「〇子、お前もだ。お前が…」と。少なくとも男性が矛先を向けているのは複数人、しかも女性だ。口調からして、一人は娘だろうか。通りで聞いているだけでも、背筋に嫌な汗が流れ出してくるのを感じた。そうだ、固まっている場合ではない、通報しなければ…。慌てて携帯電話を取り出し、震える指先で110番を押す。

 ほどなくしてパトカーとともに複数人の若い警官たちが到着した。一人の警官が私の連絡先や氏名などを確認している間、他の警官がアパートの中に入っていく。良かった、顔も見えない名前も知らない誰かだけれど、これで震え上がるような暴力から解放される。そう思っていた。私はしばらく経過を見守っていた。ところが、警官たちは玄関口でしばらく会話し、何かをメモに書き込んだ後、何事もなかったかのように階段を降りてきた。彼らは困ったような顔をしながらこう言うのだ。「いや、前にも通報があった家なんですけどね、家庭の中の問題なので…」。愕然とした。

 あの時、どうすれば良かったのだろうか、とよくその近くを通る度に振り返った。今であればもっと、しかるべき通報先や、アドバイスをくれるであろう児童福祉に関わる友人、知人の顔が思い浮かぶ。けれども当時はそんな知識もつながりもなく、ただ茫然と事の推移を見守ることしかできなかった。その後、アパートの前を通っても、窓から灯は見えなかった。あの家族は、どこへ行ったのだろう。矛先を向けられていた彼女たちは、安全な場所にいるのだろうか。

『幼い依頼人』が社会に突き付けるもの

 『幼い依頼人』を観ながら、私はあの時のことをありありと思い出した。この映画は継母が幼い弟を暴行の末、虐待死させ、姉にその罪を着せようとするという、凄惨なあらすじのものだが、韓国で実際に起きた漆谷(チルゴク)継母児童虐待死亡事件をもとにしている。2013年、8歳の女の子が継母に虐待死させられた事件が起き、当初、継母は12歳だった女の子の姉に「自分が殺した」と供述するよう強要していたのだ。

 映画の中では、周囲の人々の無関心や、「面倒なことに関わりたくない」という身勝手さが浮き彫りになっていく。学校の先生は、相談を持ち掛けたダビン(チェ・ミョンビン)の首にあざがあるのを見ながらも、「忙しいから」とスマホ片手に走り去ってしまう。異変に気付いている近所の人々も、「ああ、またか」と部屋の前を素通りする。階下の部屋に暮らす男性は、「いいから自分の子どもの面倒を見ておけ」と、ダビンたちの叫び声をよそに、妻の膝にもたれ掛かる。

 実際の事件では、学校や近所の人々が虐待を通報し、親類も保護を試みている。ところが、警察は形ばかりの事情聴取に終始し、児童保護機関も十分に機能できていなかった。子どもたち自身や、周囲の人々が必死の思いで発したSOSのサインは、脆弱な受け皿を前にかき消されてしまったのだ。この事件を機に、制度の不備や、虐待防止のための予算が十分に割かれていなかった現実が、改めて社会に突き付けられた。

 実は映画を観ていて気掛かりだったのが、虐待した継母ジスク(ユソン)が法廷に出てきたシーンだ。弁護士ジョンヨプ(イ・ドンフィ)が、「母親とはどんなものですか」と迫る。ジスクは体を震わせながら答える。「いないのに知るわけがない」。そして徐々にその声は、叫びに変わっていく。「バカなこと聞くな! 何さまなの! なんで私を責めるの!」。

 なんで私を責めるの、という彼女の言葉は心の底からの言葉だったように思う。この映画では掘り下げ切れていなかったものの、虐待する親たちもまた、複雑な家庭環境に育っていたり、孤立していたりするということが日本でも指摘されてきた。そうした保護者たちの支援を続ける知人の活動にも触れたことがある。加害の側に向き合おうとすると、「虐待親を擁護するのか」という声がすぐに上がる。けれども繰り返したくないからこそ、なぜその加害は止められなかったのか、という問題は避けられないはずなのだ。

 虐待の背景に親の孤立や生育環境があることを投げ掛けると、「そんなこと、昔から言われていたことだ」と言う人もいる。けれども、だからといって“そんなこと”を訴え掛けなくていいことにはならない。むしろ問わなければならないのは、昔から言われていた“そんなこと”を、前に進められていない社会の側なのだろう。

 日本のGDPに占める教育への公的支出の割合が、OECD(経済協力開発機構)加盟国の35カ国中で最下位を維持している(2019年9月10日OECD発表)ことにも表れているように、子どもを支えるための社会基盤は十分とは言い難い。少子化だ、子どもを産め、と畳み掛けるような政治家の暴言が相次ぐ割には、保育所や育休など、子どもを育てていくための環境は整っていない。

 今回SDGsの中で「目標16:平和と公正をすべての人に」を選んだのは、その中に「子どもに対する虐待、搾取、取引及びあらゆる形態の暴力及び拷問を撲滅する」という項目が掲げられているためだ。いざとなった時に、子どもや大人の「助けて」という声を受け止められる場はあるのか、そこで働く人々のための予算は十分なのか、いまだ“そんなこと”を問わなければならない現実にめまいを覚えつつ、それでも働き掛け続けなければならない。

 もう一つ、「目標5:ジェンダー平等を実現しよう」を選んだのは、「子育ては母親の役割」という押し付けが、登場人物たちの言葉の端々に感じられたからだ。この根強い「べき論」の縛りが、孤立を生む要因の一つであるように思う。

 ちょうどこの原稿を書いている最中、国連児童基金(ユニセフ)が行なった先進・新興国38カ国に暮らす子どもの幸福度についての調査がニュースになっていた。日本の子どもたちは、自殺率の高さなどから「精神的な幸福度」が37位、最低レベルだったという。ファインダー越しにさまざまな国、地域の子どもたちを見つめながら、子どもの表情は、社会の表情そのものだ、と感じてきた。

 子どもが笑えない社会は、豊かな社会とは言えない。それは、日本でも問われていることなのだ。

安田さんプロフ

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