イラストレーター・信濃八太郎が行く 【単館映画館、あちらこちら】 〜「ポレポレ東中野」(東京・東中野)〜
文・絵=信濃八太郎
“使いながら残していく”こと
「残せ残せといっても、ずっとそこにあってほしいというようなノスタルジーや、芸術的価値があるからという理由だけでその場所が残せるわけじゃない。残して、そしてそれを長く維持していくには当然莫大なお金がかかる。一度残すと決めたら放っておくわけにはいかない。どう残していくのか。子育てする親のような気持ちだね」
大学を卒業して勤めた自由学園明日館(東京都豊島区)で最初に吉岡努館長(当時)に言われた言葉を、こうやっていろんな映画館を取材させていただくようになってから時折思い出している。
自由学園は1921年、日本における女性ジャーナリストの先駆けであった羽仁もと子と、夫で教育者の羽仁吉一夫妻によって設立された学校だ。当時帝国ホテル建設のために来日していた巨匠、フランク・ロイド・ライトの設計によって建てられた校舎は、1934年に学校機能が移転してからも、明日館と名付けられ、卒業生たちの手によって長い間大切に残されてきた。
一方、建物が自然と溶け込んでつながっていくことをイメージしたライトのプレーリースタイル(草原様式)という設計手法は、湿気の多い日本においては老朽化の要因ともなって、ぼくが学生の頃には、長らく天井壁崩落の危険などを理由に見学者の受け入れもしていない状態が続いており、美しい建物も外から眺めることしかできなかった。明日館の取り壊しや建て替えなどが検討されるようになると、保存運動が起こり、関係者が集っての協議が長らく続いたと聞く。それを取り仕切っていたのが、日本航空での経験を買われて母校に戻った吉岡努館長(当時)だった。
ぼくが働くこととなった1996年には明日館はライト設計による世界的にも貴重な建物として、国指定重要文化財の指定申請を出すところだった。まだPCが普及し始めたばかりの頃で、毎日、吉岡さんが手書きする膨大な申請関係の書類を、ワープロ入力して提出用に仕上げていくのが、入ったばかりのぼくの主な仕事となった。半年ほどかかってものすごく分厚い申請書類が完成し、審査の結果、明日館は無事に国指定重要文化財の指定を受けることとなった。
指定後の調査の結果、おおよそ3年半にわたる大掛かりな解体修理工事が必要と判明した際に、吉岡さんは「この工事の記録を映画として残せないか」と言い出した。技術の継承にもなるし、またリニューアルオープンした後には上映会やDVDなどソフト販売もできる。少しでも利益につながればという思いもあった。
吉岡さんはすぐに、自由学園卒業生で映像に関わる仕事をしているお二人に連絡を取った。萩元晴彦さん(日本初の独立系テレビ番組制作会社「テレビマンユニオン」創立のおひとり)と本橋成一さん(写真家・映画監督であり「ポレポレタイムス社」代表として映画館運営や作品配給などを行なう)で、程なくお二人とも来館された。
館内を歩きながら、かつての学友であるお二人と話す吉岡さんの表情は少年のようで、重責からひととき解放されてリラックスした印象があった。萩元さんは是枝裕和監督をお連れくださった。当時テレビマンユニオンにお勤めながらすでに『幻の光』('95)を撮って映画監督としても活躍され始めた頃で、ぼくは「わ、是枝監督だ!」と場違いな興奮をしてしまい、一番後ろを歩きながら、是枝監督のことばかり見ていた。その日の夕方、吉岡さんと「是枝監督に撮ってもらえたらいいですね!」「さっきのコレエダさんてのは有名な人なのかい?」そんな会話を交わした四半世紀も前のことを、昨日のことのように覚えている。
制作は結果的に、本橋さんのご紹介によりドキュメンタリー映画を数多く手がける桜映画社が担うこととなり『ライトのおくりもの -自由学園明日館保存のための解体-』(’20)として完成した。本作を監督してくださった原村政樹さんもまた、その後桜映画社を独立されて、主に農業をテーマにしたドキュメンタリー映画を制作されている。
「せっかく建物が元通りに復元されたところで、見学者からの拝観料だけではとても維持できない」
この後に冒頭の言葉がつながる。工事期間中、吉岡さんは、文化庁(当時)の担当者と折衝を重ね、同時に文化財保存の専門家、F.L.ライト学者など建築関係の先生方、開館事業の経営者の方々など、書き出せばキリがないほどさまざまな人たちと毎日会っては「どう残すべきか」知恵を仰ぎ、道を探っていた。その結果、明日館は国の文化財としては当時あまり例がなかった“使いながら残していく”という「動態保存」のモデルケースとして認められ、誰もが多目的に使うことのできる貴重な文化財として、現在も営業を続けている。
利益を生みながら建物を残す仕組みを作ることができたのは、吉岡さんの奔走の結果だと、そばにいた者として思う。今でも機会があると寄っている。危険で人も立ち入れなかったかつての状況を知っているだけに、生まれ変わった明日館の姿、そしてそこに集う人たちを見るとうれしくなってしまう。
自主制作映画の登竜門でもあるポレポレ東中野
2021年2月、今日はポレポレ東中野にやって来た。
先に書いたような理由で、本橋成一監督を知った頃『ナージャの村』を観に来たことがあった。本橋監督が撮ったこの作品は、チェルノブイリ原発事故で汚染された小さな村と、政府からの立ち退き要請後もそこに残って暮らす家族を追ったドキュメンタリーフィルムだ。美しい自然の描かれ方が、それだけに深い悲しみを伴って、胸に染み入ってくる作品だった。当時の館名はBOX東中野だったが2003年よりポレポレ東中野として運営されていて、その時から今日お話しを伺う大槻貴宏さんが支配人をされている。
大槻さんに本橋さんとのエピソードを話すと「そうでしたか。今も来てますよ。最近は年齢もあって、たまにになっちゃいましたが」とにっこり笑ってお話しくださった。
大槻さんは日本の大学を卒業した後、アメリカの大学で映画を学び直されたそうだ。どうすればビジネスになるのか、映画プロデュースを学ばれ、帰国後の1999年に、短編映画も上映できる映画館として下北沢トリウッドをオープンされた。若い監督がいきなり2時間の作品を撮るのは難しい。アメリカには短編もかける映画館があった。そんなシアターを日本でも作りたかったとのこと。
こちらは自主制作映画の登竜門としても機能しており、新海誠監督、深川栄洋監督、吉田恵輔監督ら、たくさんの新人監督の作品を発掘、上映している。
大槻さんは現在「ポレポレ 」と「トリウッド」二館の支配人として、毎日東中野と下北沢を行き来している。そもそもなぜトリウッドをやりながらポレポレの支配人までやることになったのだろうか。
「そりゃ、声をかけてもらったからですよ」と大槻さんが冗談交じりに笑う。
「新しく映画館を作ろうという際に、共通の知り合いがいまして、マネジメントをやれる人を募集してるっていうのを聞いたのがきっかけなんです。トリウッドは50席程度の大きさなんですが、こちらは96席あるので倍のお客さんを入れられます。トリウッドでデビューした監督が、実績を重ねて規模を大きくしようという時にポレポレがあることで、ステップアップしていければいいなって思ったんです」
短編作品の印象が強いトリウッドと、ドキュメンタリー中心のポレポレをそれぞれ20年以上。異なる作品を上映する二つの映画館で、毎日何をかけるのかを決めるだけでも、通常の倍の作品数と接する必要があるわけで簡単なことではないと思うけれど、さらに加えてデビュー前の監督たちから持ち込まれる自主制作映画も大槻さんご自身で全て観ているという。
「もう慣れちゃいましたけど、意外と働いてますね(笑)。どれだけ規模の小さな個人で撮った作品であっても、持ってきてくれたらまずは自分で観て、面白いものであれば、じゃあどうやったら上映できるかってことを監督と一緒に考えていきます。作品は出来たら終わりではなく、広く観てもらわないと意味がありません」
ぎりぎりまで作品づくりに追われて、ろくに周知もできないまま展覧会の初日を迎えることが多々あるポンコツイラストレーターには耳が痛い。
「ここを始めた頃はぼくも30代だったんですが、いま50代になると監督はほとんど全員自分より若い世代。SNSを使った告知方法などは逆に教えてもらったりしてます。新聞や雑誌、放送を使った告知はこちらからアイデアを出して、二つを組み合わせれば、これくらいの規模だと意外と集めることができますね。うまくいけば、じゃあこの後、他の都市にどう広げていこうかなんて相談をしたりもしています。
上映できるならまだいいのですが、上映を見送ることにした作品の場合は、逆にすごく観ちゃいますね。だって絶対にどこがだめだったんだと聞かれるじゃないですか。きちんと答えてあげたいなと思いまして。単純に臆病なだけなんですけどね(笑)」
大槻さんの語り口の面白さにつられて一緒に笑っているとうっかり大事なところを見落としそうになるけれど、そこにはビジネスとしての面ももちろんあって「それなら今度はもっと良い作品を作ろう、もう一度持ち込んで観てもらおう」と思ってもらわないと次のステップにつなげていくことができないということなのだそうだ。
劇場の支配人であり同時に映画プロデューサーでもある大槻さんにとって、今ここにある映画だけがすべてなのではない。新しい映画は、作品であると同時に新しい商品でもある。率直な思いをきちんと言葉にして伝えることで、新たな才能とつながり、一緒になって大切に育てていくことで、より魅力的な作品=商品が生まれるわけである。
「今は簡単に撮れるようになって本当にいい時代ですね。生まれた時からありとあらゆる映像に触れられる状況の中で育ってきた今の中高生くらいの子が作る映像って、ぼくらの時代のものとは全く違うだろうなって、本当に期待して楽しみにしてるんですよ」
町と映画館のつながり
続いて町と劇場のつながりを伺った。
「東中野って新宿から総武線で二駅、渋谷や下北沢にも近いんですけれど、他に何かあるかというとあまりない。それが故、この映画館を目的に来てもらって、そこから町歩きを始めてもらえればと思ってるんです。ものすごくおいしいごはん屋さんなんかもありますし、飲み屋さんもたくさんあります。うちは、ここでしかやってない作品が多いので、わざわざ来てくれるというお客さんが多いんですね。そういう方もコロナの中では来ることが難しいだろうと、それで先日改めて東中野の町の人たちにチラシをまいたんですよ。
割引サービスを付けて、散歩するような気分で来てくださいねって。ドキュメンタリー映画をやってるっていうと、それだけでなんだか難しそうな映画館て思われてるかもしれないじゃないですか。あ、すみません、こんな顔して“難しい”もないか(笑)。だからまあいつでも笑顔でお迎えしようと。そんな難しい映画をやってるわけでもないので、ふらりと来てくださいってね」
大槻さんの緩急自在なお話ぶりに、すっかり笑いっ放しだ。
「ドキュメンタリー映画って、難しいことを教えてくれるというんじゃなくて、へぇーそんな見方もあるんだっていう新しい発見があるかないか、上映するかしないか決める時はその一点は大きいですね」
大槻さんのような目利き中の目利きが世界中のドキュメンタリーの中から厳選して上映しているポレポレ東中野こそ、ふらりと来て、その時にたまたまやっている映画を観るのにぴったりな劇場ではないだろうか。必ず新たな発見があるだろう。
次回まで少し待つような時間があっても、1階には広々としたカフェがあるので安心だ。今回キーマカレーとラクレットトーストをいただいた。カレーはしっかりスパイスが効いていながらも、とがったところがなくとても優しい味わいで、毎日でも食べたいおいしさだった。そしてラクレットトーストに使われるチーズのお話を伺って驚いた。ぼくが勤めていた自由学園とも深いつながりのある共働学舎新得農場(北海道新得町)のチーズを使っているという。明日館で働いていた頃、年に1度、販売会があって、世間知らずのぼくはそこでこんなにうまいチーズがあるのかと驚いたものだった。まさか今日ここで出会えるとは思っていなかった。
「うちでも年に1度、収穫祭をやってもらうんですけれど、もう大人気で。朝買っておかないとすぐ売り切れちゃいますね」と大槻さん。こちらもカレーと同様、抜群のおいしさで、仕事を忘れて「赤ワインを一杯…」などと口走っていた。もちろんプロデューサーの尾形さんに、終わってからにしましょうね、とたしなめられた。
続いて地階にある劇場を案内していただく。地上からずいぶんと階段を降りるだけあって、地下とは思えぬその天井の高さに圧倒される。
「2フロア分、さらにもっと下がっていると思います。この天井の高さはうちの武器です」
座席に座るとさらに天井は高くなり、地下にいることを忘れる開放感だ。
「開館してすぐに『赤目四十八瀧心中未遂』をかけることなって、監督の荒戸源次郎さんが来たんです。それで席に座るなり床を指して、さらにもっとここを掘って観やすくできないか、と言うんですよ。いったい何を言ってるんだと(笑)。そんなの無理に決まってるでしょう。やりたきゃ自分でやってくださいよと答えたんです。そしたら後年、ご自身で望み通りの劇場を上野公園に作られて…」
荒戸監督との思い出話を語られる大槻さんの目が温かい。
「たいへんな人だったけれど、教えてもらうことがたくさんありましたね。公開前日から劇場入りされて、映画館という枠を飛び出してこのビル自体を使って宣伝しようと、大量ののぼり旗を持ってきて立てていくんです。外にもフロアにも。ビル全体がハリネズミみたいになっちゃってる(笑)。ここに一夜城を築くっておっしゃってたんですけど、本当にそうしちゃった。映画に対しての気構えを教えてもらいましたね。子どもと一緒だって。生んで終わりじゃないだろう、そこから育てていかなきゃ誰が面倒見るんだって」
かつてご自身が荒戸監督から教えられたその姿勢を、今度は大槻さんが次の世代へつなげていこうとしている。
「自分でも作っているからかもしれないんですが、映画に限らず絵でも小説でも、出来上がったものに対する想いというのは、作る側からすれば皆同じようにあって、だからこそそこにはちゃんと向き合って答えようと思ってるんです」
大槻さんの、人の背中を優しく押してくれるような語り口調とお話しの明快さに触れ、こういう人が観てくれるんだったら…と、ふっと自分でも作品を作ってみたくなった。相変わらず単純にできていて自分でもあきれるが、取材の後からは、映画を観るたびに「これをもし自分で撮るんだったら」と心のどこかで思うようになり、その都度、こうやって世に出ている作品が、ここまで来ただけの意味や理由を痛感するのだった。
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