東日本大震災からの漁師たちの歩みと重なる映画『くじらびと』――「豊かに生きる」とは何か?
文=安田菜津紀 @NatsukiYasuda
今回取り上げるのは、石川梵監督が足かけ30年通い続けるインドネシア・ラマレラ村の人々と、命懸けのクジラ漁を追った壮大なドキュメンタリー『くじらびと』('21)。
時に厳しく牙をむく自然と向き合う人々の姿を通し、SDGsの「目標14:海の豊かさを守ろう」をともに考えます。
(SDGsが掲げる17の目標の中からピックアップ)
街を破壊し、人の命を奪った海に、なぜ人はもう一度戻っていくのだろうか?
東日本大震災発生からまだ間もない2011年3月、岩手県陸前高田市の上空はどんよりと分厚い雲に覆われ、時折小雪が散らついていた。湾に臨んだその地形は津波の勢いを強め、一体そこにどんな営みが存在したのか、想像すらできないほど、街の中心地は見渡す限りのがれきに覆われていた。「さぞかし人は、海を恨むだろう」。あまりの光景を前に、そう思わずにはいられなかった。
やがていてつく冬の寒さが少しずつ和らぎ始めた頃、ふと港に集まる人影が目についた。そこには、漁具を拾い集め、骨組みだけになってしまった作業場の片付けを始めた、浜人たちの姿があった。当時は不思議に思っていた。あれだけ街を破壊し、人の命を奪った海に、なぜ人はもう一度戻っていくのだろうか、と。
陸前高田の半島の西端に位置している広田町根岬は、豊かな漁場に面している静かな港の集落だ。ここで出会ったのが、ベテラン漁師の菅野修一さんだった。
地震が発生したあの日、菅野さんは船を守ろうと、津波が押し寄せてくる前に沖へ沖へと突き進んだ。けれども無線でやりとりしている仲間たちが、逃げ遅れ波にのまれていくのが分かったという。陸側から流されてくる大量のがれきをかき分けて、1日がかりで港へとたどり着いた菅野さんが目にしたのは、変わり果ててしまった故郷の姿だった。
「もう、海に出るのはやめよう」
小さな頃から漁師仕事を続けてきた菅野さんでさえ、あの時、そう思わざるを得なかったという。
それからしばらくは、支援物資の缶詰で食事を取る生活が続き、食卓をにぎわせていた新鮮な魚たちは姿を消していた。菅野さんは炊き出しや物資運びに追われながら、あの日守り抜いた自分の船を、見ることさえできない日々が続いていた。
菅野さんの家では、3人の孫たちが共に暮らしている。その中でも末っ子の修生くんは皆から“しゅっぺ”と呼ばれる一家の元気印だった。ある日、当時3歳になろうとしていたしゅっぺが、菅野さんにこう言ったそうだ。
「ねえねえ、じいちゃん。じいちゃんが捕ってきた白いお魚を、しゅっぺもう一回食べたい」
その一言に菅野さんはハッとしたという。あの日怖い思いをしたはずのしゅっぺが、もう一度、その海の恵みを食べたいという。そして自分もまたしゅっぺの望むように、海と共に生きてきたではないか、と。
それからというもの、菅野さんはまた海へとこぎ出し、その恵みを近所の家々に配り歩いた。「やっぱり地元の魚が一番だな!」と、家々に喜びの声が響いた。「おいしい!」と夢中で食べるしゅっぺの姿に、漁師を続けるという菅野さんの決意はますます強まっていったという。海の営みの再生は、街が再び呼吸をしはじめる道のりそのものだった。
くじらびとの自然に対する「畏怖の念」が、陸前高田で出会った浜の人々と、私の中で重なる
映画『くじらびと』には、東日本大震災からの漁師たちの歩みと重なるいくつものシーンが映し出されている。舞台となっているのは、日本から約5,000㎞離れたインドネシア・ラマレラ村だ。人口1,500人のこの小さな村は、目の覚めるような深い青の海に面し、人々は自然の恵みに祈りをささげながら営みをつないでいる。大地が火山岩に覆われているこの土地では、農作物が十分に育たない。村人たちの暮らしを支えてきたのは、400年以上にわたってこの地で続いてきたともいわれるクジラ漁だった。
巨大なクジラに木船で立ち向かう漁は常に命懸けだ。なかでも「ラマファ」と呼ばれる漁師は、波間で激しく揺れる船の舳先にすっくと立ち、一瞬の隙をついてクジラ目掛けて海に飛び込む。モリ1本であの巨体を突く、重要かつリスクの高い役回りだ。鋭い一撃を受けた後も、クジラは果敢に反撃し、体当たりされた船からは船員たちが投げ出される。まさに、死闘だ。
2018年、漁の最中に悲劇が起こる。ラマファのひとり、ベンジャミンが、網が足にからまったまま、海へと引き込まれてしまう。懸命の捜索のかいなく、ベンジャミンはついに、見つかることはなかった。村は深い悲しみに暮れ、兄デモは海に出ることが怖い、と胸の内を明かした。それでも、船大工の父イグナシウスは、祈りを込めて新たな船を建造した。デモは海への怖れを抱きながらも、恵みへの感謝と敬意を胸に、1年という月日を経て、再び海へと繰り出した。最初はその背中から、不安が滲んでいるようにも見えた。けれどもクジラの動きを逃すまいと海面を見つめる眼光は、徐々に鋭さを増していった。クジラを仕留めた後、彼らは静かにまた祈りをささげる。この、自然に対する「畏怖の念」が、陸前高田で出会った浜の人々と、私の中で重なるのだ。
この村では、年間10頭のクジラが捕れれば、村人全員が生きていけるといわれている。食料としてはもちろん、海の恵みを市場へと運び、トウモロコシやバナナと交換する。クジラの油はスープや家のランプに使われ、皮を含めて全身が余すことなく活用されていく。この映画でSDGsの「目標14:海の豊かさを守ろう」を考えたかったのは、この目標の中で警鐘を鳴らしている「過剰漁獲」や機械を使った乱獲、それが市場に出回った後の「フードロス」と、ラマファの生活が対極にあるからだ。捕鯨自体に否定的な見方もあるが、村の生活は常に、他の生物が滅ぶような漁の形を嫌い、自然のリズムと共にあるものだった。壮大な自然を「征服」しようとするおごりこそが、「持続可能な社会」を阻むものだろう。
ラマファを夢見る少年エーメンの父、ピスドニは、一度はバリに出稼ぎに行ったものの、お金に追われ続ける生活よりも、ラマレラでの暮らしに戻ることを選んだという。過剰に消費する社会は、人間も同時に消耗させる。「豊かに生きる」とは何かを、この映画は改めて問い掛けている。
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