「動」と「静」の演技を突き詰めた究極の表現者、綾野剛の到達点
文=SYO @SyoCinema
綾野剛という役者には、“謎”がある。
「動」にも「静」にも振り切った演技を見せられる希代の実力者だが、作品数を重ねても一つのイメージにとらわれることがない。映画やドラマはもちろん、恐らく“素”に近いであろう、バラエティ番組の出演時も、自身のSNS上にいる彼も、演じている「役」の誰かではないのか?――という疑念を抱かせるのだ。
己の全容を悟らせない表現者。「この人の本質には到底たどり着けない」と思わせてしまう、かげろうのごとき揺らめく存在。確固たる個性を有しながらも、繊細も豪胆も、役に合わせて自在に行き来できる理由は、表現力とともにある、彼の形容しがたい“分からなさ”にあるのではないか。まさに、役者になるべくしてなった存在といえるだろう。
近づけば遠のき、だが追わずにはいられない。本記事では、1月31日(日)にWOWOW初放送を迎える『影裏』(’20)を中心に、改めて役者、綾野剛の魅力の一端を分析していきたい。
綾野がこれまで演じてきた役どころを「静」と「動」に大別するなら、『影裏』で演じた今野秋一は、静の極致にいるキャラクターだ。会社の転勤で岩手・盛岡にやって来た彼は、同僚の日浅典博(松田龍平)と親しくなる。しかし日浅は、ある日突然姿を消してしまう――。
友が失踪し行方を追う中で、これまで知らなかった“影の部分”を目の当たりにしていく物語自体にはミステリー要素があるものの、本作の特徴は「語らなさ」にある。盛岡の美しい自然に溶け込むように、今野と日浅は黙して語らず、想いは風や川に流されていく。
観客は、彼らの深奥にまで踏み込むことはできない。さながら宗教画と対峙する時のように、揺れる木々や、たき火、ザクロの実といった隠喩の中から、内面を判読していく行為にとどまるのみ。
『るろうに剣心』(’12)でも綾野と組んだ大友啓史監督が、これまで得意としていた人間の生命力をゴリゴリと描く筆圧の強さからふっと離れ、呼吸音さえも邪魔になるような幽玄の世界にいざなう本作。得体の知れない男を演じさせたら天下一品の松田の好演はもとより、その身一つで役どころはおろか、作品のテーマ性を背負い切った綾野の“主張しない存在感”は、驚嘆に値する。
130分以上の上映時間の中で、ほぼ出ずっぱりにもかかわらず、周りの空気を壊さぬように息をひそめて存在している綾野。自分が画面に映ることを拒むかのような、奥ゆかしさと後ろ暗さは、なかなかすっと出せるものではないだろう。どれほど役に没入すれば、これほどの純度に到達できるのだろうか。本作における綾野は、観ているこちらが心配になるほどの、今にも消えてしまいそうな危うさを漂わせている。
やがて、今野の胸に痛みを残す“過去”がほんのわずか明かされるとき(そのキーパーソンを演じるのは、中村倫也だ)、彼の輪郭がぐらりと揺れる。肩を震わせて号泣するとか、絶叫するとか、そんなアッパーな芝居は一つもない。役から逸脱した演技を付加していないにもかかわらず、観客は身震いするほどの“変化”を感じ取るはずだ。そこに、綾野剛の底知れぬ感受性が垣間見える。
『そこのみにて光輝く』(’13)や『怒り』(’16)、『楽園』(’19)や『閉鎖病棟-それぞれの朝-』(’19)など、秘密や過去を抱え、コミュニケーションから距離を置いた人物を繊細に演じ、『シャニダールの花』(’12)などの摩訶(まか)不思議な作品にも息吹をもたらしてきた綾野。『影裏』で演じた今野はその中でもセリフが少なく、翻弄され続ける役柄であるため、難易度は相当高かったのではないか。
『天空の蜂』(’15)で演じたテロリストも、過去がなかなか明かされない謎めいた人物。「日本の原子力発電所を全て破棄せよ」との声明を出した彼の目的とは? 一見すれば危険極まりない人物だが、徐々にその背景が明かされていくにつれ、人間的な厚みが増し、見え方が全く変わっていく。前半は狂気のテロリストを怪演し、後半になると壮絶な体験で壊れてしまったひとりの青年の姿が浮かび上がってくる――。こういった“仕掛け”も、綾野だからこそ効果を発揮したのではないか。ちなみに本作では、野獣のようなうなり声を上げ、アパートの2階から飛び降り、刑事たちともみ合う激しいアクションにも挑戦している。
反対に、『日本で一番悪い奴ら』(’16)は、綾野剛という役者が、どこまで「動の演技」を極められるかを証明した力作。北海道警の刑事になった諸星要一(綾野)は、超が付くほど真っすぐな正義感の持ち主で、先輩のアドバイスも素直に聞く。だが、いつしか犯罪の片棒を担ぐようになっていく。爽快感すら漂うほど華麗に転げ落ちていく姿と、綾野の画面からはみ出しかねない熱量ギンギンの怪演が、観る者に強烈なショックを与える。
顔を麻薬の粉まみれにして転げ回り、大声で周囲をどう喝し、気に食わない相手は蹴り飛ばし、上司だろうと食って掛かる――しかもそこにあるのは、誰が見てもあさっての方向に暴走してしまった、かつての正義感。どこからツッコんだらいいのか分からないキャラクターながら、綾野が文字通り全身全霊で演じ切っているため、アンチヒーローとして成立してしまっているのが興味深い。救いようのない人物にもかかわらず、諸星の一挙手一投足が気になって仕方なくなるのだ。ちなみに本作でも、中村倫也が「道を誤らなかった後輩」という印象的なキャラクターを演じている。
作品ごとにまったく別人になり、それでいて他の作品に引きずらない異能を持った綾野剛。そのため、同じクリエイターの作品に参加しても一切役柄が重ならない。例えば、同じ大友監督の作品でも『影裏』と暗殺者に扮した『るろうに剣心』では、まったく異なる印象を観客に与えたことだろう。優柔不断なのにモテまくる優男を好演したドラマ「最高の離婚」と、子どもをゴミ袋に入れる壊れた人間に扮したドラマ「Mother」は、どちらも坂元裕二が脚本を務めている。野木亜紀子が脚本を手掛けたドラマ「空飛ぶ広報室」とドラマ「MIU404」も同様だ。吉田修一が原作の『横道世之介』(’12)、『怒り』『楽園』にも、すべて出演している。
そんな綾野の静と動の演技が完璧な配合でブレンドされたのが、2021年1月29日(金)に劇場公開を迎える『ヤクザと家族 The Family』だ。綾野は本作で、社会のはみ出し者だった青年が極道となり、やがて反社会的勢力として排除されていくさま、その20年間を演じ切った。現時点での集大成と呼ぶにふさわしい輝きを放っている。
冒頭、綾野剛という役者の面白さは「表現力が途方もなさ過ぎて、全容をつかめない部分」にあると述べたが、どの作品においても、ぶれない部分がある。それは、モノづくりに対する姿勢。下積み時代、自ら多くの現場の門戸をたたき、武者修行をして回ったというが、作品の完成度を高めようとする信念、いや執念がすさまじいのだ。
『ヤクザと家族 The Family』では、「クランクインする時に、監督に俳優を尊敬しないでほしいと伝えました。俳優が自分のために芝居をするのではなく、作品のために生きられるようマウントをとってもらいたいと思ったからです」と語っており、彼の並々ならぬ熱意が感じられる。
何者にでも化けられる才覚を持ちながら、作品づくりにおいてはただひとりの個人として、愚直に向き合い続ける綾野剛。器用と不器用が一つの体に住まう表現者――気付くとわれわれはまた、彼の姿を追い掛けている。
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