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観ることのない映画の絵を描いて遊んでいた子どもの頃のこと

 note×WOWOWのコラボレーション企画として#映画にまつわる思い出」をテーマに作品を募集中。WOWOWシネマ「W座からの招待状」やnote連載「W座を訪ねて・信濃八太郎が行く【単館映画館、あちらこちら】」でおなじみのイラストレーター、信濃八太郎さんにも、このテーマでコラムを書いていただきました。信濃さんと映画との関係をイラストとともに綴ります。ぜひ作品投稿の“お手本”にしてみてください。

文・絵=信濃八太郎

 「W座からの招待状」という映画番組の案内人役を、放送作家の小山薫堂さんと一緒に担わせていただいて、間もなく7年目となる。元々は薫堂さんと、ぼくの師でもあるイラストレーター・安西水丸先生のお2人で、2011年から始まった番組だ。
 毎週冒頭には、その日に放映される作品へといざなうための、1分間ほどのショートアニメーションが流れる。安西先生からも「映画好きが映画の絵を描けばいいんだもの、最高だよ」と聞かされていたのだけれど、この絵を描くのが、今ぼくも楽しくて仕方ない。

 薫堂さんが映画からイメージを膨らませて詩を紡ぎ、俳優の濱田岳さんがそれを朗読し、音楽家・阿部海太郎さんが音で彩り、ぼくはイラストレーターとして、印象に残った場面を10点ほど描いていく。4人の仕事をスタッフの皆さんが一編のアニメーション=招待状としてまとめ上げ、TV画面に流れ出す。打ち合わせなくそれぞれで進めるため、出来上がった招待状を見て、言葉と絵がぴたりと呼応する瞬間があると望外の喜びだ。
 この6年の間に300作品、3,000点ほどの絵を描いてきたことになる。描くほどに自由な翼を得るような、そんな伸びやかさが心を満たしてくれていて、今ならどこにでも飛んで行けそうだ(当社比)。

 毎週、まずは映画を観て、その印象にふさわしい画材を選ぶところから始める。
温かなヒューマンドラマには鉛筆と水彩の淡いタッチが合うかなとか、ハードなバイオレンス作品にはかすれた筆のタッチがいいなと、選んだ画材を手にして机に向かっては、役を与えられた俳優の気分でセリフなど一人ぶつぶつつぶやきながら、作品のモードにスイッチを合わせて描いていく。

 手を上げる、まばたきをする、男と女が抱き合う、銃が撃たれる、自転車が動く、葉が風に揺れる。ちょっとしたことなのだけれど、1枚しか描いてないはずの絵が、アニメーションスタッフの手で命を与えられて動き出した瞬間、思わず「わっ」と声が出てしまうほどうれしい。毎週「わっ」と声を出しては「自分で描いたんでしょ?」と小学生の子どもにあきれられている。「だって動くとうれしいじゃない。子どもの頃から動くといいなって思ってたんだもの」

 子どもの頃、絵を描くのが何よりも楽しい遊びだった。
 というよりも、それしかやることがなかった。小学校に上がる前のこと、新しく引っ越した町には友達もおらず、碁盤の目のような通りには、まったく同じ家が視界の先まで並んでいる。いわゆる新興住宅地で、一度ひとりでお使いに出てわが家を見失ってからは、外に出るのも怖くなってしまった。自然と、家で絵を描いたり、本を読んだり、映画好きな父と並んで一緒に観たりすることが日常となった。

 父のVHSの映画コレクションのなかでは、チャップリンの作品を好んで観た。もちろん動きでだいたい理解できたからだろう。「よく見てろ、この女がたいへんな目に遭うぞ」と父の解説付きで観るヒッチコック作品も好きだった。自分が親になって思えば、小学校に上がる前の子どもに、よく『サイコ』('60)のあのシャワーシーンを見せたものだとあきれる。

 印刷会社に勤めていた父は、会社で出た端紙の束をいつも持ち帰ってくれた。何種類もの紙束が、2階に上がる階段の隅に雑然と置かれ、そこから1枚ずつ引き抜いて触りながら、これはツルツルしてるからマジックペンがいいな、これは薄くてザラザラしてるから鉛筆で描いてみよう、そんなことを感じながら絵を描いて遊んでいた。どれだけ無駄に使ってもなくなることがない紙、紙、紙。
 振り返ってみればそれがどれだけ自分の時間を豊かなものにしてくれたことかと、今日も同じようなことをしながら思う。

 父の会社では松竹や東宝、日本ヘラルド映画など、映画関連の取引先の印刷物を多数手がけていた。毎週のように持ち帰られる、刷り上がったばかりの、これから封切りされる映画のプログラムやポスターの数々。「おい、手伝ってくれ」と呼ばれ、父と一緒に車から荷を下ろすときの、夜気に混じった新しい紙とインクの匂いが懐かしい。

 プログラムを早速じゅうたんの上に並べて広げ、映画のタイトルや表紙のデザインを見てはうっとりしていた。文字を読むにはまだ早いうちから、紙質や厚み、色使いや写真から、その作品ごとの「匂い」のようなものを嗅ぎ取ろうとしていた。
 「いったいどんな映画なんだろう」と、想像をたくましくしながらページを繰っていく。日に焼けた鼻の高い男、金色の髪に青い瞳の美しい女。

 階段倉庫から紙を何枚か引っ張り出してきては、ひとりで勝手な物語を思って、観ることのない映画の絵を描いていた。凹凸が少ない日本や中国の俳優の顔よりも、西洋人の顔の方が描きやすいと、その頃すでに感じていた。今もどちらかというとはっきりした顔の方が描きやすいのは、その頃の刷り込みかもしれない。

 初めて映画館で観た作品は、父に連れられて出かけた日比谷映画劇場での『007/ユア・アイズ・オンリー』('81)だった。字幕だった上に家と違って父の解説もない。ジェームズ・ボンドがスキー場を滑って逃げ回ってたことしかおぼえていない。

 父とどこかに出かけると、いつも最後は神保町に流れる。三省堂や東京堂書店で「絶対外に出るな。よく時計を見て。またここで会おう」と厳命され、1時間ほど放っておかれた後、とんかつ屋さんに連れていってもらうコースだった。

 小学校に上がってからは友人たちと一緒に映画を観に行くようになり、父と出かけることも少なくなった。『E.T.』('82)や『グーニーズ』('85)といった作品のおかげで、新興住宅地も悪くないなと、主人公になりきっては、未知の生き物や隠された宝物を探し、みんなで町外れまで自転車を走らせるようになった。

 父と再び映画を話題にするようになったのは、大学に進学した後、安西水丸先生と出会ってからのことだ。
 「それはいい先生と出会ったな。映画について書かせたら抜群だよ。俺と映画の好みが似てるんだ」と先生の本を手にしては、付箋を貼ったページを開いて音読し始める。「あの映画を観て、この表現はなかなかできないよ」とうれしそうに笑っては、ぼくよりもよほど先生の人柄を理解していた。父いわく、映画の好みで大体どんな人間か分かるのだそうだ。

 その後、社会人になってからも、ひとり暮らしの部屋から実家に帰るたび、父に「これは水丸先生もきっと好きだぞ」と誘われて、昔のようにふたりで一緒に映画を観た。でも、子どもの頃と違って、映画よりも、帰省のたびに増えていく父の白髪や、大きくなっていく音量の方が気になって、あまり作品に集中できなかった。

 今も映画館に出かけるとプログラムを買ってから席に着く。暗闇のなかでページを開き、目を閉じてあの頃の「匂い」を探している。

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