役に“溶ける”妻夫木聡の演技のすごさを、『ある男』から紐解く。

映画ライターSYOさんによる連載「 #やさしい映画論 」。SYOさんならではの「優しい」目線で誰が読んでも心地よい「易しい」コラム。今回は『ある男』('22)で、亡き夫が何者なのかを調べてほしいという奇妙な依頼を受ける弁護士役を演じた妻夫木聡の魅力を紐解きます。

文=SYO @SyoCinema

 これは私見だが、映画にハマるきっかけは多くの場合「俳優」からなのではないか。たまたま目にしたドラマやCMで見かけた俳優に惹かれて「じゃあ次は」と映画を観てみる。そうして俳優の“推し”になり、出演作を追いかけていくうちに「監督」や「脚本家」、あるいは「テイスト」や「ジャンル」へと興味が拡大していく。
 自分も、そのルートをしっかりたどって今がある。ものすごく影響を受けているのはオダギリジョーさんで、中学、高校、大学と彼の出演作を観ていく過程で多くのクリエイターを知っていった。

 そして実はもうひとり、きっと僕たち世代で大なり小なり影響を受けていない人はいないのではないか? と思う俳優がいる。それが、妻夫木聡さんだ。本稿では彼が第46回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞に輝いた最新主演映画『ある男』のWOWOW初放送を記念し、本作について綴りたいのだが――そこに至るまでの個人的な歩み=イントロ部分が少々長くなることをご容赦いただきたい(以下、敬称略で失礼します)。

 先に述べたように、1987年生まれの自分は映画やドラマにハマる時期が妻夫木のブレイクタイミングとかぶっていた。『ウォーターボーイズ』('01)、『ジョゼと虎と魚たち』('03)といった映画や「ランチの女王」('02)、「オレンジデイズ」('04)などのドラマは中高生の僕のハートにぶっ刺さり、「妻夫木さんの出演映画を網羅しよう」とレンタルビデオ/DVD店に足しげく通ったものだ。『Jam Films』('02)、『さよなら、クロ』('03)、『ドラゴンヘッド』('03)、『きょうのできごと a day on the planet』('04)、『69 sixty nine』('04)――実家のリビングでこれらの作品を観ていたことを、いまだによく覚えている。

 大学進学に伴い上京し、一時期映画から離れていたのだが(なぜかその中でも『春の雪』('05)を模倣した自主映画を作っていたりした)、2010年の映画『悪人』で「やっぱり妻夫木さんはすごい…」と感動し、また映画にのめり込んでいった。『スマグラー おまえの未来を運べ』('11)、『愛と誠』('12)、『東京家族』('13)、『清須会議』('13)などを経て、2014年の『ぼくたちの家族』の際には映画雑誌の編集者として本人にインタビューが叶う。『渇き。』('14)でオダギリ×妻夫木のタッグに歓喜し、『怒り』('16)で映画館の席から立ち上がれなくなるほど泣き、『ミュージアム』('16)はいまだに大好きな1本として自分の中に君臨し続けている(ちなみに『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』('17)は妻とのデートで観に行った思い出深い作品)。

 こうして振り返ると、妻夫木出演作を相当数観てきたことを再認識するが、彼の芝居のすごさについて言語化するとなると、どうもうまくいかない。端的にいうと「うま過ぎる」のだ。素朴な青年から“パリピ”、武士にサイコパス――彼がこれまでに演じた役柄を思い返しても、全部ハマっていて違和感がない。役に「化ける」というより「溶ける」に近いニュアンスであり、彼自身が持つ“クセ”や特徴が感じられないのだ。

 むしろにおい立つのは、役の画面には描かれない背景や生活感。「役の余白を作り出せる」前提があるからこそ、『怒り』での虚勢の決壊や、『ある男』の石川慶監督との初タッグ作『愚行録』('17)での虚飾が剝がれ落ちていく瞬間が、観る者の心を震わせるのだろう。『愚行録』の冒頭、バスの中で足を引きずっていた主人公が降りた後に何事もなかったかのように歩き出すシーンに戦慄せんりつした観客は多いだろうが、そうした人間の心に潜む“邪”の部分を、みじんの作為も感じさせずにぽんと出せてしまう人物造形の強度。目の前に見えているものはその人物のすべてではなく、あくまで一部であり、どんな人物にも状況や状態に応じて変貌する刹那があるのだ――ということを、妻夫木の芝居からはまざまざと感じさせられる。その進化点が、『ある男』だ。

 妻夫木が本作で演じた主人公・城戸は相当ハードルの高い難役。城戸は在日韓国人3世でもある弁護士で、「自分は何者なのか」という自己アイデンティティーがずっと見つけられないまま生きている。周囲の人間から「在日韓国人」に対する(ほぼ無意識下の)偏見や差別を受け、「弁護士はこう」といったレッテルを貼られ、ささくれだった心を隠しながら、妻、義父母、依頼人、同僚といった他者の前でそれぞれ違った仮面をかぶり波風を立てないように生きている。そんな彼が依頼を受け、「他人の人生を生きた何者か」の事件を調査していく――。

 本作での妻夫木は主人公でありつつ物語のガイドを務め、傍観者でもある。城戸には説明的なセリフが多数用意されているわけではなく、むしろ自分の本心を隠す傾向にあるため、われわれは彼の微細な表情の変化から心情を察するわけだが、そうした“におわせ”が絶妙だ。物言わぬ城戸は、腹の底で何を感じ、頭の中で何を考えているのか……。寡黙な彼がはしゃぎ過ぎた子どもに激高してしまったり滑らかに嘘をついたりするシーンは不穏なムードと悲しみや怖さを感じさせつつ、「他者の分からなさ」を探求した本作の核として機能している。

 この映画における「人物像」は一つではなく、時に自分でも把握できないほどその時々で姿を変える。と同時に出自といった逃れられない“属性”があり、それが故に自分の実像を分化、分裂させていく必要性が生じてしまうのだ。…と、こう書くと難解な作品に感じてしまうかもしれないが、社会問題を絡めた「私は誰なのか」「あなたは誰なのか」というよりどころのないものを、われわれがするりと受け入れられてしまうのは、そのテーマを妻夫木が血の通った個人に落とし込み、体現しているが故であろう。

 彼のたたずまいや表情を視覚、聴覚でインプットするとき、われわれは「分からなさを分かる」感覚へといざなわれる。その人物の心根は分からなくとも、目の前に実在するのは確かだと感じられるからだ。そしてその瞬間、「妻夫木聡」という役者はわれわれの脳裏からはかき消えている。そこにいるのは、役の領域を超えた「城戸」という人物だけ。容易に把握できるわけがない他者をそのまま浸透させてしまう、ただ者に見せるただ者でなさ。妻夫木聡の芝居の“底”を、私たちはいまだ知らない。

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