広瀬すずの真骨頂。『流浪の月』で痛感した、“嘘のつけない”演技の在り方

映画ライターSYOさんによる連載「#やさしい映画論」。SYOさんならではの「優しい」目線で誰が読んでも心地よい「易しい」コラム。今回は、『流浪の月』('22)で俳優として、新たな一面を魅せる広瀬すずについて語ります。

文=SYO @SyoCinema

 日本屈指の実力者でありながら、“固まることのない”俳優・広瀬すず。映画やドラマといったフィクション=嘘を描き続ける分野で、彼女の気質は「嘘がつけない」もののように感じる。画面の向こうにいる彼女の一挙手一投足は、精緻に作り込まれた“技術力の結晶”というよりも、再現性が低い“魂そのもの”、いわばその瞬間の生きざまを写し取ったもののように見えるのだ。

 もちろんカメラの前で演じる以上技術は伴うものだし、筋肉の動かし方や他者が作ったセリフを自分の中に落とし込み、まるで自身の内から出てきたかのように見せるのは、並大抵のことではない。ただ、そうした役者としてのスキルを、生まれ持った内面が優に超えている感覚――。それが故に、広瀬すずという存在は唯一無二なのであろう。そのことを痛感させられたのが、誘拐事件の“被害者”に扮した映画『流浪の月』だ。

 凪良ゆうのベストセラー小説を『悪人』('10)の李相日リ サンイル監督が実写映画化した本作。広瀬は『怒り』('16)に続く李監督とのタッグとなり、本作ではかつて女児誘拐事件の被害者であった主人公・更紗に扮した。その犯人とされた文を演じるのは松坂桃李。更紗と文が15年ぶりに再会したことから、運命が再び動き始める。広瀬、松坂に加えて横浜流星多部未華子が更紗と文それぞれのパートナーに扮した。

 簡略化したあらすじ時点でも複雑な心情表現が求められる難役であることは予想がつくが、詳細まで見ていくと確信へと変わる。更紗は幼少期に父を亡くし、母に去られて伯母の家に引き取られるも、いとこから虐待を受けていた。絶望的な日々で出会ったのが、当時大学生だった文。孤独な2人は文の家でともに過ごすようになるが、世間はそれを許さなかった。誰にも理解されないまま「被害者」「容疑者」のレッテルを貼られて離ればなれになった2人――。松坂は過去と現在を通して文に扮するが、更紗に関しては幼少期を白鳥玉季、現在を広瀬が演じている。つまり、“発端”を己が身で体験できない状態で挑むという難しさもプラスされるというわけだ。

 そうした中で、広瀬は李監督のアドバイスを受けて松坂に話を聞きに行ったり、コロナ禍による撮影中断を経て追加された「大人になった更紗が湖(文と離ればなれになった場所)に行く」シーンに身を投じる中で“補完”を行なったりしたというが、公開時に彼女にインタビューさせていただいた際に「クランクイン前はお芝居に対して手触りが何もない状態が続いていた」と明かしてくれた。役柄に対しても、あるいは演じること、俳優として――さまざまな部分で苦悩している時期だったのかもしれず、ある種の不安定な状態が更紗という人物と絡み合い、先に述べた“嘘のなさ”をより一層強めたようにも感じる(撮影現場では、涙腺が壊れて涙が止まらなくなりそうになった瞬間もあったという)。

 広瀬は自身を「(芝居における)嘘がつけない」「器用な方ではない」と語っていたが、それはそのまま虚飾のなさ=自身を削るタイプの演者とも言い換えられる。自分自身が役と同化・同調して、かつカメラが回っている/回っていないにかかわらず切り替えられない――つまり自身の心身を役に明け渡すような演技の方法論だ。本番時だけ「役を下ろす(乗り移らせる)」瞬間集中タイプではなく、じっくり役に身を浸していく分、すぐには自身に戻れない。傍から見れば負担が大きい演じ方ではあるが、だからこそ『流浪の月』の広瀬には有無を言わせない“本物感”がみなぎっている。

 役者の演技を評する際に「熱演」や「力演」「怪演」、あるいは「憑依演技」といった言葉を使いがちだが、本作における広瀬の場合は「演技」という言葉がふさわしいのか? という次元にまで突き進んでしまっている。演技という言葉が持つ他者性をかなぐり捨て、当事者性を極限にまで高めた状態――。彼女に呼応するように、松坂も横浜も多部も「これ以上踏み込んでは危うい」といった心のセーフティ・ゾーンにまで分け入り、「見られている」「魅せる」といった意識が皆無のように感じられる芝居を放出している。

 ここで興味深いのは、広瀬がいわゆるスター・システム的な「役を自分に近づける」スタイルではないということ。「嘘がつけない」特性を持っている俳優は得てして、自身の強固な個性が役をのみ込む構造になるものだ。興行においてもその役者の名前を大々的に押し出したアプローチを敷くし、観客も「こういうシチュエーションの役者」を観るために劇場に足を運ぶ。あくまで主体は役(キャラクター)ではなく役者本人にあり、その人が持つオーラ(つまりスター性)を役が縛ることがない、というものだ。

 しかし広瀬においては、自身に役を従わせることなく、かといって自身が役に奉仕しすぎることもなく、手を取り、対話して、共に悩み一歩ずつ歩んでいくような印象を受ける。是枝裕和監督と組んだ『海街diary』('15)や『三度目の殺人』('17)、李監督との『怒り』においても、そうした雰囲気は漂っていたが、『流浪の月』においてかつてないほどに振り切った結果が、観る者の心をざわめかせる芝居につながったのであろう。

 コンテンツ過多の現代、特に国内においてはタイトなスケジュールの現場も多く、演技に瞬発力を求められる機会も多い。その流れと逆行するような、広瀬すずのじっくりと醸造する“嘘のつけない”演技の在り方には、ものづくりが本来持っていた原点――そこに立ち返らせる力が宿っているのではないか。

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クレジット:©2022「流浪の月」製作委員会

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