奈緒の芝居の“深度”に触れ、僕はどうしようもない感情に押しつぶされてしまった。
文=SYO @SyoCinema
役者に対して「すごい」と感じる瞬間は多々あるのだが、この人においては不遜にも「一緒に仕事をしたい」と思ってしまった。ひとりの物を書く人間として「この人に演じてもらえたら、幸せだろうな」と夢想してしまう存在であり、「物語を書きたい」とインスピレーションをかき立てられる存在でもあり……。
創作の世界ではそれを「ミューズ」と呼ぶのだろうが、まだ実績のない自分においてはその言葉が当てはまらなくとも――似たような感覚を抱いてしまったのは確かだ。その俳優の名は、奈緒。今クールのドラマ「あなたがしてくれなくても」をはじめ、数々の映画やドラマ、舞台で輝きを放つ人気実力派だ。
社会現象化した2019年のドラマ「あなたの番です」しかり、ホラーもコメディも人間ドラマも問わない彼女の並外れた演技力は周知の事実だろう。もう少し解像度を上げて考えると、奈緒の芝居は没入の“深度”が違うように思う。よく俳優に対して、イタコ(死者の霊を憑依させる呪術師)に例えて“憑依演技”などといった表現がされるが、奈緒の芝居にはそれに似た、肌があわ立つような感覚を覚える。畏怖や感動はもちろん、寡黙な人物を演じればその背景を想像してしまうし、極端な濃いキャラクターに扮したらその圧に持っていかれてしまう。
自分のように創作欲を刺激されるのもその一環だろうが、観た者が思わず“反応”してしまう凄みが、彼女にはある。そうした奈緒の資質と完璧にマッチした作品が、盟友の永野芽郁と“運命の親友”を演じた映画『マイ・ブロークン・マリコ』('22)であろう。
『マイ・ブロークン・マリコ』は、平庫ワカによる同名漫画をタナダユキ監督が実写映画化した作品。幼なじみで親友のマリコ(奈緒)がマンションから落下して死亡したと知った、ブラック会社勤めのシイノ(永野芽郁)。父親や恋人から暴力を振るわれ続けてきたマリコの魂を救うため、シイノは毒親から遺骨を奪取して旅に出るのだった――。
「児童虐待」や「暴力」、さらにはそれが人格形成に及ぼす影響を描いたこの物語は、観る側を心痛な気持ちにさせる力作。タイトルにある通り、それを一身に背負うのがマリコであり、その受け皿となるのがシイノだ。原作では「ブロークン」=ぶっ壊れたマリコの痛々しさが非常に効いていたが、実写化に当たり役者が肉体を通して“生きる”必要性が生じる中、奈緒は適任としか言いようがない入り込みを見せている。直接的な描写が決して多いわけではない本作において、シイノや観客といった他者を戦慄させるような生々しさがあふれ出ているのだ。
冒頭、高校時代のシイノとマリコは不動産屋の前で物件情報を眺めている。「シイちゃんと暮らしたい」と語る声、目(色や視線)、表情といったマリコの“圧”に触れた時、その“ただ者ではない”感を知ることだろう。そして、彼女がシイノの方を向いた時、頬には痛々しいあざができていて……。やや気圧された様子のシイノとのギャップも相まって、マリコの人物像がわずか数分のシーンでなだれ込んでくる。
端的にいえば、奈緒がもたらす説得力が段違いなのだ。「こういう人」という外側からのアプローチではなく、内側(内面)が外側(表出)を作って“しまった”ようなリアリティ――。設定だけを借りた表層的な人物デザインとは、まったくもって質が異なっている。理不尽な被害に遭った“サバイバー”を描く上で、「使う」なんてことはしたくない――。そんな覚悟すらも感じられるようだ(奈緒は劇中に登場するマリコの手紙のすべてを“癖”を寄せて直筆したという)。
印象的なシーンがある。大人になったマリコは、危険な目に遭ったにもかかわらずDV彼氏を再び受け入れ、骨を折られてしまう。観客はきっと「どうして?」と思うことだろう。そうした「マリコが分からない」われわれに対し、彼女は「私ぶっ壊れてるの」とつぶやく……。
他者に壊された彼女から漂う諦念を目撃したとき、僕はどうしようもない感情に押しつぶされてしまった。「分からない」と感じさせ、寄り添いを阻害する“断絶”を作り出したのはマリコを傷つけてきた者たちであり、彼女は現在進行形で被害に遭い続けている。その苦しみが、奈緒の芝居からは痛いほどに伝わってきた。
劇映画はフィクションだが、映画に映し出されない部分にも“人生”はある。そのことを『マイ・ブロークン・マリコ』の奈緒を観ていて再認識した次第。本稿の冒頭で彼女の芝居の“深度”について触れたが、その深さが故に「あくまで自分が見ているのは一端/一部/一面である」と思わされるのだろう。
ある壮絶な過去を抱えた人物に扮した『君は永遠にそいつらより若い』('21)も、いなくなってしまった恋人を演じた『彼女来来』('21)も、主人公を見守る友人役を任された『余命10年』('22)も、奈緒が演じるからこその「描かれない部分への想像」を自然に促された感覚がある。声だけで存在感を放った『#マンホール』('23)、倫理観が崩壊した漫画編集者を立体化した『先生、私の隣に座っていただけませんか?』('21)もしかり。
きっと、人物を分解し、再構築して省略化、表面的に加工し「分かりやすくする」のではなく、層を積み重ねていくことで「分からない」に真実味を持たせ、その断面を垣間見せることが「演じる」なのだ。そのことに気付かせてくれた彼女への感謝を述べて、本稿を締めくくりたい。
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