東京の街と映画館の記憶をたどる。映画とともに右往左往しながら、私は成長してきたんだろう。
文=中村佑子 @yukonakamura108
今、街の映画館はどんどん失われ、シネコンとなって同じような顔になり、それぞれの街で、それぞれの映画館が発していた表情はなくなっていくばかりだ。思い出して言葉にしてあげないと、大気中に消えてなくなってしまうような、映画館の風景。
私はここで、街と映画館の記憶を書いていきたいと思う。それも、1990年代の映画館の記憶だ。
私は1977年生まれ、23歳で2000年のミレニアムを迎えた世代。つまり13歳から23歳という、どんなものでも新鮮にごくごくと吸収する、青春時代と呼ばれる時代がすっぽり90年代に入る。まだ誰も携帯電話でネット検索などできない時代。隅から隅まで情報誌『ぴあ』をにらんで、上映時間のだいぶ前からその街に行って、あてどなくぶらぶらした。
90年代といえば、1995年1月に阪神淡路大震災が、3月に地下鉄サリン事件が起き、11月にWindows 95が発売された。人々が個人化し、閉鎖していく時代の一歩手前、予兆のような時代だったと思い返している。それはまだ多少は他者に開かれていた時代ともいえて、そのころ映画館は、私を隠してくれるエアポケットのような繭であり、よりいっそう深く他者と出会う場所でもあった。
まず高校時代の映画館の思い出といえば、学校を抜け出してよく行った下高井戸シネマだ。下高井戸は、商店街を歩けば焼き鳥の匂いが店先から漂ってくるのんびりした街で、下高井戸シネマもそんな街に似つかわしい、何の変哲もないけれど温かい映画館だった。授業を早退し、制服のまま吸い込まれるように映画館に入っていく当時の私のことも、この映画館は温かく迎え入れてくれた。私は高校で、“精神的に参っている人”ということで、特例で早退することを許されていたのだ。その分出席が足りず、大学の推薦枠は落ちたけれども。
下高井戸シネマは名画座で、都心でしか上映しておらず見損ねた日本映画を数多く観た。小雪主演の『Laundry ランドリー』('01)という映画があって、私はしばらくその映画に出てくる窪塚洋介のことが好きで、BONNIE PINKが歌う主題歌「Under The Sun」を聴くと、そのときの感情を思い出す。
映画を観た後は吉祥寺に出て、多国籍料理店のKuuKuuでお昼ごはんを食べたりした。今では伝説の店KuuKuuの、高山なおみさんが繰り出す創作エスニック料理は、今でも強烈な記憶となっている。例えばサンマを一本塩焼きしたものがごはんの上に乗っていて、パクチーと魚醤がかけてあるだけのワンプレートディッシュなんかを喜び勇んで食べていた。
私は最初の結婚のときに披露宴を挙げたのもKuuKuuで、式の最後、KuuKuuのマスター椌椌さんから、高校生のとき制服でよく来てたよね? 顔覚えてるよ、と言われたりした。椌椌さんは自転車でカレー店まめ蔵とKuuKuuを行ったり来たりしていて、その道すがらフランス料理店ル・ボン・ヴィボンのマスターも自転車の籠に野菜を乗っけて走っていて、そう、あのころの吉祥寺はお店とマスターの顔が一致して、彼らを街で見かけることも多く、たくさんの顔が、街の顔を作っていた。
そんな吉祥寺という街にはバウスシアターがあった。サンロードの端っこにあったバウスシアターに、私は育てられたといっても過言ではない。実家が吉祥寺だったので歩いて帰れるからということで親の許可をもらい、レイトショーもよく見た。
エドワード・ヤンなどは、バウスの真夏の特集ですべて観たのではなかったか。ヤンの『カップルズ』('96)や『エドワード・ヤンの恋愛時代』('94)など、孤独にもどかしく、何かを求め続けている若者たちと台北の熱気を全身に浴びて外に出ると、吉祥寺の街は昼間の暑さを残してまだむっとしていた。きっと台北の夜はもっと蒸し暑いはずだが、真夏の夜空に吉祥寺と台北がつながったような気持ちになったのだ。映画の記憶が街の記憶と、いくつも一致している。
シネ・ヴィヴァン・六本木は、恋の記憶と結びついている。六本木の、いまはヒルズがあるところに六本木WAVEがあって、その地下にあったシネ・ヴィヴァンは東京の映画館の中でもとりわけ都会的で、ちょっとお洒落に力を入れないと恥ずかしくて行けないような場所だった。
そこでジム・ジャームッシュの『デッドマン』('95)を、当時の恋人と観たことを思い出す。ジャームッシュは大好きだけれど、なぜかあの映画には乗れなくて、それはジョニー・デップのナルシシズムに乗れなかったのか、西部劇に乗れなかったのか何なのか分からないけれど、妙に冷えた心を抱えて映画館を出ると、その人はものすごく興奮していて、あれは死の旅だって。死の旅は死の旅なのだろうけど、なんだかそのころの私は、男の人の焦燥感に対して映画の中で感情移入してあげるのに疲れていた。
隣で興奮している人には、そんな私の心を見透かすことができなくて、孤独な気持ちを六本木の街に溶かしていった。シネ・ヴィヴァンで観た映画には、なぜかそんな記憶ばかりがまとわりつく。
90年代の渋谷は、のちにシブヤ系と言われるように、確かに面白い街で、私の中の渋谷の地図は、映画館によって作られていた。山手線の渋谷駅を南に降りるとさくら坂の麓にユーロスペース、スペイン坂を上がるとシネマライズ、NHKの手前のファイヤー通りにはアップリンク・ファクトリー、道玄坂の途中にはシネセゾン渋谷、2000年になると宮益坂を上るとシアター・イメージフォーラムができた。映画館の位置が渋谷の外周の限界点となって、頭の中の渋谷は映画館に囲まれた中にあった。
私は特にユーロスペースが好きで、桜が咲くころは2階のロビーの窓から見える遠景の山手線と、桜並木の風景が好きだった。特別思い出深いのは、アレクサンドル・ソクーロフの『精神の声』('95)を観に行ったときの記憶だ。タジキスタン内戦の第一戦線を8時間写した、ソクーロフのなかでもとりわけアバンギャルドなドキュメンタリー映画だが、爆弾や銃声が聞こえるのは、遠くに、ほんのときたま。ほとんどは、兵士が退屈してぼそぼそ会話したりする圧倒的な戦場のリアルに、ときどき眠くなって寝落ちしながらも、8時間を完走する。
おにぎりを何個か持ち込んで、途中の休憩時間にかじりつつ映画が終わって席を立つと、隣の観客たちと同志のような友情が芽生えたことを思い出す。しかしこの映画、写っている兵士たちのほとんどが生き残っていないと知って、震撼することになる。
あの頃、戦争は遠くTVの中の出来事だった。それは今も同じなのだが、戦争の足音は今かなり近くまで聞こえてくる。そういう意味では、90年代の日本は平和ボケしていた時代だった。
…と映画館を巡る記憶をたどっていたら、若い頃の自分の激しさや、凸凹加減ばかりが際立ってへきえきするが、そうやって映画を観て右往左往しながら、私は成長してきたのだろう。
映画館は暗がりだ。思想家であり政治哲学者のハンナ・アーレントは、植物をはじめ成長する生物には「暗がりの安全」が必要だと言った。ときに明る過ぎる社会から離れたくて仕方なかったあの頃の私には、映画館の「暗がりの安全」が、魂の成長に必要だったのだろう。
観るものはたぶん、何でもよかった。今振り返ると、そう思うのだ。
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クレジット(トップ画像):Getty Images