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“赤狩り”から“ダイバーシティ”の流れまで――アカデミー賞は「時代を映す鏡」だ。

 いよいよ3月28日(日本時間)に開催予定の「第94回アカデミー賞授賞式」。アカデミー賞はシンプルに素晴らしい作品、映画人に賞を授与することが名目だが、その歴史を振り返れば、各時代の“鏡”になっていることがよく分かる。その時々の社会問題にハリウッドが敏感に反応し、受賞者や受賞作、さらに授賞式に大きな影響を与えてきたからだ。今回は映画専門ライター/ジャーナリストの斉藤博昭さんに、授賞式をもっと深く楽しむために、アカデミー賞はいかに時代の“鏡”であり続けたかという側面で歴史を振り返っていただいた。

文=斉藤博昭 @irishgreenday

ハリウッドの黒歴史とリンクする米ソ冷戦

 まずは第2次世界大戦後までさかのぼると、ハリウッドの黒歴史として語り継がれる「赤狩り」が挙げられる。アメリカにおいて共産主義者、あるいはその同調者が弾圧を受け、映画人たちも下院非米活動委員会の聴聞会で追及され、次々と有能な才能が仕事を追われることになる。

 アカデミー賞に助演賞が創設された1937年開催の第9回。『風雲児アドヴァース』(’36)で史上初の助演女優賞に輝いたゲイル・ソンダーガードは、1947年に映画に出演した後、約20年もの間仕事を干された。彼女の夫は、赤狩りに抵抗した「ハリウッド・テン」のひとりだったのだ。聴聞会に呼ばれ、証言を拒否すれば入獄。証言すれば業界からは裏切り者扱いされる。アカデミー受賞者やノミネートの俳優たちも、赤狩りの犠牲になった者が多い。

 そんな赤狩りの影響を受けながら、偽名を使って仕事を続けたのが脚本家たち。なかでも有名なのが、ハリウッド・テンのひとり、ダルトン・トランボだ。1957年の第29回アカデミー賞で『黒い牡牛』(’56)で原案賞を受賞したロバート・リッチは、トランボの偽名だった。その3年前の1954年(第26回)、今も名作として語り継がれる『ローマの休日』('53)で原案賞を受賞したイアン・マクレラン・ハンターも、実際にはトランボが執筆していたことが後に判明。このあたりの顚末は『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(’15)で描かれた。トランボのように赤狩りに抵抗した脚本家は他にもいるが、俳優として抵抗し、仕事のブランクが空いた後、『シャンプー』(’75)で第48回アカデミー賞助演女優賞受賞と見事に復活したのが、リー・グラントだった。

 喜劇王のチャールズ・チャップリンも共産主義を容認していると取られ、1952年に事実上のアメリカ国外追放。そのチャップリンに、1972年の第44回アカデミー賞で名誉賞が贈られた際は、ハリウッドへの帰還として大喝采を受けた。逆に聴聞会で仲間を売る証言で自己保身したエリア・カザン監督が名誉賞を受賞した1999年の第71回授賞式はブーイングと拍手が交じるなど、赤狩りのアカデミー賞への影響は長年、続いたのである。

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ベトナム戦争は正義だったのか? 授賞式の壇上は主張の場に変化

 1970~80年代にかけて、アカデミー賞授賞式が政治的発言の場となった要因がベトナム戦争だ。第51回の『ディア・ハンター』(’78)、第59回の『プラトーン』(’86)などベトナム戦争映画で作品賞に輝いたものも目立ち、ベトナム帰還兵と看護師の交流を描いた『帰郷』('78)で第51回の主演女優賞を受賞したジェーン・フォンダは、手話でスピーチすることで社会的メッセージにインパクトを与えた。政治的発言では、ベトナム戦争が終結する直前の1975年、『ハーツ・アンド・マインズ/ベトナム戦争の真実』('74)が第47回の長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した際、プロデューサーが和平協定に感謝する電文を読み上げ、物議を醸した。

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 ベトナム戦争とは直接関係はないが、70年代は、『ゴッドファーザー』('72)で第45回の主演男優賞に輝いたマーロン・ブランドがアメリカ先住民への差別に抗議し、授賞式を欠席。代理に先住民を名乗る女性に受賞スピーチをさせたり、『ジュリア』('77)で第50回の助演女優賞を受賞したヴァネッサ・レッドグレーヴが、パレスチナを擁護するためスピーチでユダヤ人を批判したりするなど、会場を騒然とさせた事件が今も語り継がれている。「ベトナム戦争の時代」の社会的ムードをアカデミー賞授賞式も反映していたのだ。

シドニー・ポワチエらが道を切り拓いた、アカデミー賞のダイバーシティ化

 そして社会問題という点で、アカデミー賞と切り離せないのが、人種やジェンダーの問題だ。白人男性優位主義が長く続いたアメリカ社会だが、当然のごとくハリウッドにおいても同じ様相を呈していた。

 まず人種問題では、アフリカ系アメリカ人(黒人)俳優たちの長い闘いの歴史がある。1940年の第12回アカデミー賞で、『風と共に去りぬ』('39)で助演女優賞を受賞したハティ・マクダニエルは初の黒人オスカー受賞者。しかしこの時、彼女は授賞式に出席できたものの、会場のホテルが「黒人お断り」だったためか、『風と共に去りぬ』の共演者とは別のテーブルに着席させられた。
 黒人男優の受賞は、そこから24年後の1964年(第36回)、『野のユリ』('63)で主演男優賞を獲得したシドニー・ポワチエまで待たされることになる。さらに時間を空け、1983年(第55回)、『愛と青春の旅だち』('82)でルイス・ゴセットJr.が助演男優賞を受賞してからは、数年に1度のペースで黒人俳優が受賞するようになり、近年はその割合が増した。しかし、2015年(第87回)、2016年(第88回)と2年連続で演技賞4部門全てのノミネートが白人で占められ、“白すぎるオスカー”と批判される。

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 人種でいえばアジア系は、ハリウッドではさらにマイノリティで、助演女優賞では『サヨナラ』('57)のナンシー梅木(第30回)、『ミナリ』('20)のユン・ヨジョン(第93回)、助演男優賞では『キリング・フィールド』('85)のハイン・S・ニョール(第57回)の受賞はあったが、主演男優賞はノミネートですら2021年(第93回)、『ミナリ』のスティーヴン・ユァンが初だった。今後、アカデミー賞が人種のダイバーシティにどう向き合うか、アジア系俳優の活躍がカギを握りそうだ。

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 そのアジア系、およびヒスパニック系では、監督賞では受賞者がいる。むしろ近年は彼らが優勢である。逆に黒人の監督賞は過去にひとりもいない。この監督賞、ジェンダーで振り返れば圧倒的なまでに男性が独占してきた。初のノミネートが、アカデミー賞が始まって半世紀後の1977年(第49回)、『セブン・ビューティーズ』('76)のリナ・ウェルトミューラー。2010年(第82回)、『ハート・ロッカー』('08)のキャスリン・ビグローが監督賞で女性初の受賞者となった。2021年(第93回)は監督賞ノミネート5人のうち2人が女性で、そのひとりのクロエ・ジャオが『ノマドランド』('20)で受賞を果たす。ジャオは中国人であり、ダイバーシティの象徴になったのである。

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 こうしたハリウッドにおけるジェンダー差別について、2015年(第87回)、『6才のボクが、大人になるまで。』('14)で助演女優賞を受賞したパトリシア・アークエットは、壇上で「女性の給与と権利の問題に決着をつけたい」と堂々とスピーチ。その後、2017年からは過去のセクハラ被害を告発する「#Me Too」運動が大きなうねりとなる。かつてアカデミー賞作品を続々と送り出す手腕で知られたプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが、女優や自社の従業員への度重なるセクハラ行為を告発され、多くの俳優も過去のハラスメントが暴露されていった。2017年(第89回)、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』('16)で主演男優賞を受賞したケイシー・アフレックも、女性からセクハラで訴えられた過去が発覚。壇上でオスカー像を渡したブリー・ラーソンは、アフレックへの拍手を拒否して、抗議の姿勢を示した。

 このように近年のアカデミー賞は、ダイバーシティ、ハラスメントの問題を、結果や授賞式をもって社会にアピールする役割も果たしている。単に優れた作品が受賞してほしいという意見があるのも理解できるが、その時代とのリンク、強いメッセージが込められたものが、後の時代まで記憶に残るのも事実だ。やはりアカデミー賞は「時代を映す鏡」なのである。

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斉藤博昭さんプロフ

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クレジット 写真:ロイター/アフロ、Getty Images