斎藤工のどこまでも尽きない“映画愛”に直接触れて、原点に立ち返ることができた――映画ライターSYOによる「ミニシアターに愛をこめて」収録現場レポート
文=SYO @SyoCinema
映画を愛し、映画界を憂う斎藤工。俳優として、監督として、さらに移動式映画館「cinéma bird」やミニシアター応援プロジェクト「Mini Theater Park」の中心人物として、日夜身を粉にして活動し続ける彼と対談する機会をいただいた。工さんがホストを務めるWOWOWの特集企画「ミニシアターに愛をこめて」だ。
本特集は、工さんが全国のミニシアターにエールを送るもの。これまで永瀬正敏さん、井浦新さん、石田ゆり子さん、瀬々敬久監督がゲストとして登場し、WOWOWで放送されるミニシアター系の作品について愛を語ってきた。
その5回目となる今回は、『バッファロー’66』('98)『レクイエム・フォー・ドリーム』('00)『アモーレス・ペロス』('99)『イギリスから来た男』('99)の4本を取り上げつつ、ミニシアターについておのおのの想いを語る、という内容。
これまでのゲストが豪華過ぎて、制作サイドからお話をいただいた際には「僕でいいんですか⁉」と思わず聞き返してしまったが、おそれ多さにおののくと同時に、工さんとのこれまでの歩みを思い返し、感慨深さにも包まれていた。
彼に初めて会ったのは、ちょうど2年前のこと。工さんが監督として参加していた映画『ゾッキ』のオフィシャルライターを務めさせていただくことになり、2020年の秋に話を伺った。その際にインプットした内容は、「映画をどう届けるか」「映画人をどう支えるか」。例えば子育て中の親たちが、映画館から足が遠のいてしまう問題。そして、子どもが生まれると現場から退かなければならなくなる課題。あのとき与えてもらった視座は、2年の月日が流れ、自分自身が親になったことでより解像度が高まっていった。そのタイミングで実現したのが、今年の5月のドラマ「ヒヤマケンタロウの妊娠」でのインタビューだった。自身の実感も込めてこのテーマについて伺い、想像以上に多くの反響があった。記事掲載後にここまで周囲から連絡をいただいたことはなく、忘れられない仕事となった。
また今年は『シン・ウルトラマン』('22)周りや雑誌のマンガ談議企画、WOWOW「映画工房」のインタビュー等々、コンスタントに工さんとご一緒する機会をいただき、不思議な縁を感じていた。その線上に今回の「ミニシアターに愛をこめて」があると思うとなんとも運命的で、「次はどんな景色を見られるんだろうか」という高揚感と、個人的にはまた別の期する想いがあった。
これは工さんにも現場で軽くお伝えしたことだが、僕は現在、便宜的に「映画ライター」や「物書き」という肩書を用いているが、あくまで個人の肌感として……国内で使用される「映画ライター」という言葉には形容しがたい“もや”がまとわりついているように思えて、妙な居心地の悪さを感じてきた。
端的に言えば、作り手と断絶される/しようとする“圧”のようなものだ。その立ち位置や距離感を愛する人もいれば、僕のように違和感を覚える者もいるだろう。おのおののスタンスは個人によるものなのに、どうもパブリックイメージというものは厄介で……人ではなく肩書で判断し、一つの既成概念の中に押し込めようとする。そういう目に何年も遭い続け、いつ頃からか「これが普通なのだ」と期待をしなくなった。強引な言い方をしてしまうと、裏方的なイメージのある「映画ライター」は“通常”、こういう場にゲストとして呼ばれない。
その既成概念を壊してくれたのが、WOWOW×工さんだったのだ。
もちろんこれは僕の個人的な経験に基づく感覚であるため、異論を唱える方もいるかとは思う。ただ、自分のメンタルとしては上記の理由から収録当日、相当気合が入った状態で収録スタジオに向かった次第。会場に入るとクルーの皆さんが収録の準備を整えていた。これまでもWOWOWの番組でMCを務めさせていただいたことはあれど、今回は立ち位置が異なるため心持ちもまた異なる。会場の奥には窓をバックにシックなチェアが2つ設置されており、そこでようやく「あっ今からここで対談するんだ」と実感がわいてきて……。
しかし不思議と、緊張はなかった。ディレクターさんやクルーの皆さん含め、その場にいるのは映画が好きな人ばかり。いってみれば、映画ファンの先輩方だ。2006年に上京した僕はミニシアターブームを経験できておらず、ようやくミニシアターに通い始めた時には、東京・渋谷のシネマライズほか多くの文化の発信地が閉館していく姿を目の当たりにした世代。だからこそ、ブームの最盛期を体感した方々の思い出のミニシアターの話を聞いているだけでなんとも楽しく、改めて映画はさまざまなギャップを超えて人と人をつなぐコミュニケーションツールでもあるなぁ……なんて感じていると、後ろに工さんが立っていた。ちょっと前からこっそり見守っていたのだという。恥ずかしくも、その優しさに触れて早速心が温かくなる。
そんな感じで、お会いしてすぐ収録が始まる流れになったが全く慌てることなく、『バッファロー’66』のパンフレットの話に始まり、ミニシアターへの想いを含めてひたすらに映画トークを展開し続けることに。正直、その詳細をあまり覚えていないほどに熱中してしまっていた。いつもならばもう少し準備&計算して発言するように心掛けるのだが、喜びの方が超越してしまったのだ。
ただ、そんな中でもしっかり覚えている瞬間はいくつもあり、工さんの『アモーレス・ペロス』やアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督への想い、『バッファロー’66』に出合った際の衝撃、それぞれの作品を観た劇場について(いまはない劇場についても内装や周辺の地域についてまで、本当に詳細に語ってくれたため脳内にビジョンが一気に浮かんだほど)、そしてどこまでも尽きない映画愛……。
僕個人に関して言うと、イギリスの映画雑誌「エンパイア」が発表した「落ち込む映画」第1位にも選ばれたというダーレン・アロノフスキー監督作『レクイエム・フォー・ドリーム』にハマったことを、嬉々として語った記憶がある(工さんの和やかなほほ笑みが印象的だった)。
映画にまつわる仕事をしているとさまざまな出会いがあるが、ごくまれに感覚や感性が「合う」人に出会えると、自分が思っていた以上の思考や言葉が引き出される瞬間がある。そういうときは「楽しい」という感情に支配されて、忘我の境地に立つものだ。「ゾーン」と言ってしまうと格好をつけた感じになるが、今回の工さんとのトークにはそれに近い何かがあったように思う。
先ほど軽く触れたとおり、僕はミニシアターブームを体験できておらず、今回取り上げられた4本もリアルタイムで劇場観賞はできていない。そうした世代的な事情も含めて、多くの点から「自分でいいのか」という感覚は潜在的にずっとあった。
今回の収録に際して気合が入っていたのも、裏を返せば逆境という意識があったからだ。だからこそ、本番で「喜」の感情一色になったのは、自分にとって驚きだった。ハードルを取っ払い、映画愛で包み込んで言葉をどんどん引き出してくれた工さんには、改めて感謝を申し上げたい。
そして――やはり印象深かったのは、ミニシアターをめぐる“今”についての意見交換。娯楽であふれかえるいま、ミニシアターの存在意義について改めて2人で考えた時間は、すばらしく有意義なものだった。
今日われわれが過ごす日常は「映像」に絞ったとしても気軽に楽しめるコンテンツであふれ、インスタント(手軽)に作ったものをインスタントに楽しむ流れが常態化しつつある。極端なことを言ってしまうと、2時間費やした結果自分の精神状態がどうなるかわからない映画は「リスク」であり(工さんからもこの言葉が出た)、本来重視されていたはずの作品や物語の“質”や“深さ”は「疲れる」とされる意見もある。
結果、ちょっと手持ち無沙汰な時間にさざ波を起こす程度のクオリティーであればそれでOKという人が増えている。「お金や時間に見合ったバックが欲しい」という“費用対効果”を求める向きは加速しつつ、一方で観る側にも心を砕かれるような「生涯の1本」より、軽く楽しめるものの方がありがたがられるという「ねじれ構造」だ。
コロナ禍に経済の落ち込み、政治の不安もあればそれも無理からぬ話で、時間の融通も利かず2時間拘束される映画館に行くという行動自体が「特異」なものになりつつあるのかもしれない。特にミニシアターとなれば、多くの人が知っている娯楽作とはまたラインナップが異なるし、さらに未知の空間なわけで…。時間とお金を費やしてそこに飛び込もうとする人が減るのは理解できる。
便利さが連れてきてしまった“貧しさ”に、どう打ち勝っていくのか――。
一つ言えるのは、ハードルを下げることだ。工さんは、かつて「始発を待つまでの退屈しのぎ」でミニシアターで過ごしていた時期があり、ちょっと休憩しようと思っていた結果、かかっていた映画が面白すぎて見入ってしまったのだとか。そこから彼のミニシアターとの旅が始まるわけだが、この言葉に象徴されるように、出合いはなんだっていい。ミニシアターは、いつ何どきもカルチャーを愛する者に寄り添ってくれる。
一方、自分はどうか。チケット予約制の時代に入ってからの観客である僕はフラッと入る機会は減ったものの、ではなぜ新宿シネマカリテや新宿武蔵野館、渋谷のシネクイント等のミニシアターに足しげく通っていたかというと、単純にカッコいいから。そこにいたいと思ったからだ。
収録時に工さんから「あなたにとってミニシアターとは?」という問いかけをいただいたが、自分にとってはパワースポットのようなもの。ミニシアターはチェーンに比べてそれぞれの“色”が強く出ていて、上映作品はもちろん空間も面白い。ポスターの貼り方やチラシの配置がおしゃれだったり、照明がいい雰囲気だったり、建物がデザイン的だったり、その場にいるだけで自分の感性が高まるようなカルチャーを摂取できる場だ。家で観るばかりでは、外的な刺激が少なくてセンスはなかなか磨かれない。
もちろんセンスを磨くのは必須事項ではないが、こと自分においては「カルチャーのそばにいたい」欲求が強いため、たぷたぷに満たしてくれるミニシアターが大好きだ。今でも、取材で各地を訪れる際には合間に現場の近くにあるミニシアターへ足を運ぶ。映画を観られれば一番だが、それが難しい場合もその空間に身を浸していると感度が上がったような気分になれるのだ。
自分の心理として、ミニシアターに映画を観に行くとなったら格好つけておしゃれな服装をしたいと思うものだし、他のお客さんがどんなおしゃれなファッションをしているかどうかも見たいし、行き帰りにカフェに行ったりショップを覗いたりしたい。
私見だが、時代がどうかなんてものを軽く飛び越えるのは、人間の根源的な欲求にも近い「カッコよくなりたい/おしゃれでいたい」なのかもしれないと最近感じる。
同じ時間を過ごすなら、カルチャーに染まった空間にいたい。自分がアメリカの独立系映画会社「A24」にドハマりしているのも、そんな理由からだ。今回取り上げた1990~2000年代の尖った映画も、A24の作品も、ミニシアターという空間がなんとも似合う。作品の醸し出す空気とその場にいる観客も含めた“場”がマッチして、物語が二重三重に響いてくるこの感じ……。そんな時間を与えてくれるミニシアターには、常々感謝している。
図らずも、今回の工さんとの対話の中で、自然と自分がミニシアターを愛する原点に立ち返ることができた。「ミニシアターって、なんかカッコよくない?」、僕の始まりはそこで、そしてこの先もそれで十分だと思う。だからこそミニシアターが次々と消えていく今は、この国の文化水準が目減りしていくようにも思えてやるせない。このままでは、この先どんどん、おしゃれじゃない国になっていくような気がするのだ。
工さんの言葉を借りるとするなら、それは「損失でしかない」。
「この空間を、護りたい」
収録中もその後も、工さんとそんな話をした。実際に行動に移している工さんに対して、自分は何ができるだろうか? 収録を終えてから、ずっと考えている。
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