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生まれてからずっと、僕のそばにいてくれたもの

 note×WOWOWのコラボレーション企画として#映画にまつわる思い出」をテーマに作品を募集中。WOWOW公式noteでおなじみの映画ライターSYOさんにも、このテーマでコラムを書いていただきました。人気連載「#やさしい映画論」とはちょっと違うSYOさんの素顔が垣間見えるコラム。ぜひ作品投稿の“お手本”にしてみてください。

文=SYO @SyoCinema

 映画との思い出。そもそも自分が映画にハマったのは、いつ頃からだっただろうか。明確に「このタイミング」といえないほど、幼少期から当たり前の存在として「映画」はそばにいた。それは今思うに、環境によるところが大きい。

 まず、時代。僕は1987年生まれで、ケータイを持ったのは高校生、インターネットもまだまだ縁遠い時代だった。大学に入ってパソコンを個人で持つようになってからネットに日常的に触れ始めたような感じで、最後のアナログ世代といってもいいかもしれない。

 そして、土地。僕は福井県で生まれ育ったが、実家はコンビニより海が近いようなのどかな場所にある。いまでこそデジタルデトックスとしてそっちに戻りたい感覚はあるが、福井にいた当時はとかく都会的なもの――もっというと“ここではないどこか”に憧れていた。

 そんな自分の渇望を満たしてくれるのが映画だった。YouTubeもTikTokもなく、ワクワクする別世界と日常的に接続できるのが映画しかなかったともいえる。そうした意味では、ある種の“貧しさ”こそが“豊かさ”を育てていたのだ。

 加えて、メンター。僕の両親は共にクリエイターで、大の映画好き。とはいえメジャー大作を映画館に観に行くにも車で1時間かかる。今みたいにテレビにネットもつながっていないギリギリVHS時代。両親は週に1回「映画デー」としてレンタルビデオ店に連れて行ってくれた。家族がそれぞれ1本ずつビデオを選んで借りて、みんなで観る。我が家ではそれを「カウチポテト」と呼んでいて、その日はサッと作った“手抜き飯”だったり、弁当やファストフードを買い込んで「ただ家族で映画を観る」時間に充てていた。その当時観ていた映画作品が何であったかより、その時間の楽しさをよく覚えている。

 映画館での観賞においては、あれは姉が観たがったのか『ハムナプトラ 失われた砂漠の都』(’99)などの大作をみんなで観に行ったりはしていたが(面白怖かった)、それとは別に記憶に残っているのは、小学4年生の時に『劇場版「名探偵コナン 瞳の中の暗殺者」』(‘00)と『オール・アバウト・マイ・マザー』(’99)の2本立てを母に組まれたことだった。メジャー系映画とミニシアター系映画の両方を満遍なく観るように“教育”されていて、父とはスティーヴン・セガール主演の「沈黙」シリーズ(’92~)なんかのアクション映画をよく観ていたなど、とにかく多様なジャンルの映画を詰め込まれていった。

 「分からなくていいから観ておくこと」というわが家の方針は僕が中学生になっても変わらず、「ハリー・ポッター」(’01~’11)や「ロード・オブ・ザ・リング」(’01~’03)、「オーシャンズ」(’01~’07)などのシリーズを観る一方、当時は「よく分かんないなー」と思いながらもコーエン兄弟の作品や『アメリカン・ビューティー』(‘99)を観ていたり……。

 基本洋画好きな家だったのだが、中学後半~高校生で僕がオダギリジョーさんにハマり、彼の出演作を観あさるようになってからは日本映画に守備範囲が広がっていった。そして大学受験の際に僕が芸術系の学科を志望し、母から教えてもらったのがクラシック。『自転車泥棒』(’48)、『ガス燈』(‘44)、『波止場』(’54)、『モンパルナスの灯』(‘58)、『アパートの鍵貸します』(’60)、『太陽がいっぱい』(‘60)――古典的名画から母が青春時代に観た名作まで片っ端から観ていった。

 他にも、『ドライビング MISSデイジー』(‘89)や『ミザリー』(’90)といった母が観て面白かったという映画はバンバン観ていたし、僕は僕でビデオ店で気になった映画の『デッドマン・ウォーキング』(‘95)や『リービング・ラスベガス』(’95)を観てガツンと食らったり、映画雑誌で目にした気になる新作を観に遠征したり……。

 こうやって思い返しても、映画漬けの毎日を送っていたように思う。あの頃はただただ「映画が好き」という感覚で満たされていた。

 それが大学進学に伴い上京して、自分自身も創作をがっつり行なうようになってからは少し意味合いが変わってくる。映画は変わらず好きだったが、どこか「理解者を探す」気持ちが強まっていった。実家にいる間は、なんだかんだで家族という存在があった上での単独行動だった。しかし東京ではひとりだ。僕はあまり人とのコミュニケーションが得意な方ではないし、そもそも他人が苦手なのもあって、どんどん孤独感が強まっていった。

 なまじアナログ人間のため、リアルで「自分は人と違う」と思ったときに、デジタルで友だちづくりという発想も根付いていない。さみしい。でも人は得意じゃない。…そんな中、“映画の中にいる人たち”に理解者を探すようになった。例えばマイク・ミルズ監督やヨアキム・トリアー監督の作品は、観ると呼吸ができる。「ひとりじゃない」と思えて、この世に生きていることを許されたような気持ちになるのだ。上京後の僕はそうやって、映画を支えにしながらなんとか生きてきた。

 映画を生業にするようになってからは、その感覚がより強くなったように感じる。文章にしろ何にしろ、ものを作る仕事は心を削り続ける仕事だ。削る以上、感受性をある程度柔らかく保ち続けねばならない。しかし柔らかくするということは衝撃をもろに食らうということでもあるから、他人と距離を取るようになる。他人から掛けられた何気ない言葉が深刻なダメージになることもあるため、ひとりにならないとクリエイティビティを保てない。そんなわけで僕はいま、映画とだけ向き合うような関係性に突き進んでいるといえる。

 …なんだか湿っぽくなってしまったが、これが自分の「#映画にまつわる思い出」の概要だ。一つだけ確かなことは、映画は生まれてからずっと、僕のそばにいてくれたということ。

 それはきっとこの先も変わらない。

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